会長法話

勝部 正雄 前会長 ほのか24

 近代文明社会③

 喪失した佛法の三つめが、「三学の実践」です。

 法然上人は「佛教おほしといえども、戒定慧の三学をばすぎず」と説かれています。「戒」とは、佛陀を仰ぎ、謙虚な心になって我を見つめ、悟られた法に照らして、己の無知・己の不徳・己の過去世の罪業を反省・懴悔し、真理に反する生活・考え・行為を排除し、真理に適った生活(行為や考え)実践することを戒と申します。これは、八正道のうちの正思惟・正語・正業・正命に当たります。その戒の実践により「真理に反する心の波動」を治まるのを「定(禅定)」と申します。正念・正定に当たります。「慧」とは、禅定により現れてくる真理・それを掌握し機能する能力(他の喜びを己の喜びとする)を申し、正見に当たります。

 この「三学」が佛教で説く、人としての最も大切な修行方法です。「江戸文明」の人々は、生活に浸透した行があり、要は、「謙虚に徹して佛陀を仰信し、如来力の加護の下」から離れなかったことでした。よって、日々、朝夕に佛壇前に座し、日常の勤行を常とされていたのです。この作法が生活からきえてゆきますと、魔道に堕し、外道の人となり、何も知らないということも知らない「自我の独善」に陥り、見濁の人となり、それが現実の世となり、今に至っています。

 喪失した佛法の四つめが「六道輪廻・因縁果」です。

 佛陀はすべての現象(結果)には必ず現象させる元(原因)のあることを説かれました。偶然とか運は否定しています。しかし、原因があっても、すぐに一律に、結果が現れないこともあります。時間の経過を待って、原因を結果へと導くもう一つの要因を発見されました。

原因と結果と関連づいていない双方が、関連づけられるのです。因があっても\がなければ果とならず、縁があっても因がなければ果とならず、因と縁が相まって果と成るのです。

 常に、この三要素が大老に関連しない限り現象しないのです。これを「因縁果の道理・縁起の法」と申します。

 私たちの生命は身体をもって現象し存在しています。しかし、存在せしめている真実や現象せしている法則に気づかず、よって、その真実や法則に反して「自我の決断」で存在しているのです。そのようすを「無明(惑)より生じた反真理の迷える生命」と言い、「自我による身と口と意の業(生き方)」を生み、その業のエネルギーが因となり、それに合う縁の誘発で具象化され、その結果、自我に合う苦悩の世界で迷える生命(果)となって、無明の世へと入るのです。

 この理法により迷いの生命体を「流転」と言い、その自我の生き方・業のしからしむるところに応じて、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の六つの世界のいずれかを転々と生まれ変わるのです。これを「六道輪廻・三界流転」と申し、「現一世」を中心として、永劫に続く「今に生きる」現実となっているのです。

 「縁起の法」は、例え話でもなく神話でもなく、佛陀の実際の実体験による教えなのです。そして、その後に継承された祖師たちも、実際に追体験された事実であり、法然上人は阿弥陀佛の救済について実体験された、縁起のご法語に

「阿弥陀佛、光をはなちて、地獄、餓鬼、畜生を、てらし給ひ候へば、この三悪道に、しづみて、苦を受くるもの、其の苦、やすまりて、命終わりて後、解脱すべきにて候。」と厳然たる事実を述べておられます。

以上の四要因は融合しながら「江戸文明」の生活で受入れら、個々人に於ては人生の杖(戒)として心得られていました。そして世においては共に生きる心(律)として共有されていたのです。その真実は内にあり、その生命が実体をもって現実にあり、それが「江戸文明」でした。その「逝きし世の面影」に心を宿し、それを手本として今日に再考する今生でありたいと願うところです。

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