会長法話

勝部 正雄 会長 ほのか2

おかげさま

私たちが「信仰」と言うと、そこには必ず願いを秘められています。

「こうしてもらいたい」「これは嫌で近寄らないようにしてほしい」「これは私にとって一番に必要なもの」「こうなりたい」「そうはなりたくない」願いが大きいほど、我が力は及ばず、それで佛神「どうか力を借してください。どうか願いを叶えてくださいますように」そういった願いが、私たちの信仰となっていないでしょうか。

手を合わせ、頭をさげて、拝む、あるいは「塩断ち」「火断ち」「寒中水ごもり」等、心を尽くして叶えられた人もあり、はずれた人もあり。

中には霊験あらたな奇跡あり。詐欺まがいの事もあり。それを叶えてくださる佛神と言うものが果たしてあるでしょうか。

私にとって都合のよい御用聞きに使ってくださる佛神と言うものが果たしてはおられるでしょうか。

 本当の佛心は、人間のそのような浅はかな姿をご覧になられ、何と無法な生き方なのかとその愚かさを悲しみ案じてくださっているではないでしょうか。

 儲けのために嘘をつき、嘘と分かれば嘘をあばいたことに腹を立て、嘘のついている自分を隠し逃れようとする愚かさ。そのありさまをご覧になられ涙しみながら「人間とは、何と悲しいものなのか。佛心の世界には嘘はなく偽りはない。嘘を嘘で隠す世よ。どこまで人は落ちて行くことか。」と心締めつけられる思いで泣いていらっしゃるのが、真の佛であり佛心ではないでしょうか。

 人類の七十億余りの人の知恵をすべてあつめても、佛の智慧の万分の一、一億分の一にも満たないのは本当ではないでしょうか。

 その御心で、人間の頭脳と精神とこころといのちのすべてを見通され、少しでも全うな人となれるよう見放すことなく、誠のこころで慈しみ、はるかに以前から見守り、大いなる願いをかけてくださっているのです。

 その願いに謙虚に応えていく姿こそが私の道ではないでしょうか。

 大自然のいのちは、永い人類歴史のすべてを育み養育してくださった「いのちの宝倉」であり、そこには人類の精神文化や知恵をはるかに超越した心があり、その根幹である「佛心の智慧と理法と他力」のあることを見つめなければなりません。

 その真理に直結した言葉が、かつて日常生活でさりげなく交わされてきた「おかげさま」でした。

 言葉や数量や知識で表せない、他を生かし育て働かせる大いなる佛心に抱かれて、私が誕生し、今に生かされているというすべての真実が「おかげさまで・・・」と言われてきたのでした。

 それは、のどかで、素朴で、安らかで、おおらかで、和やかな心の交信そのものでした。

 それによって、人の知識をはるかに超えた智慧が、日々の「私を支えてくださっている真実」に心を宿すことができるのです。

      崖の上にほんのしばらく繭のごと棲まはせてもらふと四方を拝める

「歌集・鳥獣蟲魚」著・前登志夫

 私の人生とは、ほんのしばらく崖の上に置かれた繭のようなもの。風雨に遇えば落下まちがいなし。であるにもかかわらず、今も住まわせてもらっていると思えば四方を拝まずにおれない、というお歌です。

 「おかげ」によって今生あり。この真理を知ることができるのは人間だけではないでしょうか。

 それに気づかない私に、気づく道を示してくださっています。それがお念仏をお称えする生活です。共にお称え致しましょう。

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