会長法話
かけがえのない私
誰もが、この世を無条件に「我が世である」と深く信じて日々を過ごしています。
我が世であることが「当たり前」であり、変わらぬ世と思っています。
この世しか知らない私たちがこの世に住んでいる限り、「我が世である」のが当然であると了解しています。
しかし、古歌には「我が世たれぞ、常ならん」と説かれています。
私たちの思いに反して、時は一刻もとどまることなく、迅く速く過ぎて行きます。
その進み行く時に合わせて、「我が世である」と信じていた姿も、六十歳を超えたころから一刻一刻に様変わりしていることに気づき・・・
七十を過ぎるころには我が世の春ではない、「我が世たれぞ、常ならん」の方こそがまちがいのない有様であることが分かってきます。
それにつれ、幼い日に口ずさんできた「しゃぼんだまの歌」の意味を改めて知らされることでもあります。
しゃぼん玉とんだ、屋根までとんだ
屋根までとんで、壊れて消えた、
しゃぼん玉消えた、とばずに消えた
生れてすぐに、壊れて消えた、
風々吹くな、しゃぼん玉とばそう
詠・野口雨情
縁、整って私のいのちが生まれ、そのいのちの吹き込まれた身体がさらに多くのいのちをいただき、姿をもってこの世へ誕生し、そして真実に支えられながら現実に生きてきました。
しかし、「生まれてすぐに壊れて消えた」と歌われているように、たとえ百年の年月が与えられたとしても、いずれ「消えて行く私である」ことを、人である限り知っておかなければなりません。
その自覚こそが、百年の年月が与えられたとしても、それをはるかに超えるかけがえのない「私の尊厳」へと気づくことになります。
しかし、私たちの日々の生活はあまりにも騒然として落ち着きを失い、自己を見つめる一時も余裕も見い出せない状況ではないでしょうか。
法然上人の語灯録に
「げにも凡夫の心は、物くるい、酒に酔いたるがごとくして、善悪につけておもいさだめたることなし。
一時に煩悩百たびまじけりて、善悪みだれやすければ、いずれの行なりとも、わがちからにては行じがたし」
とあります。
まさにこの言葉のように、一瞬のうちに百通りもの煩いや悩みが心をおおう有様ではないでしょうか。
欲望に私が引かれ、自己の欲望に埋没し、何が善いのか悪いのかの判断にも至らない私。そのような自己喪失の私にどのような修行があると言えるでしょうか。有りえないことです。
それで、法然上人さまはどうすれば善いと、お諭しくださったのでしょうか。
「あなたのそのご様子をご覧になられた阿弥陀さまは、一心に私の名をお称えなさい。
南無阿弥陀仏とお称えすれば、そのお導きによって、失っているあなたにおのずから出会えるでしょう。
さらに申される念佛が、あなた自身を静寂の一時へ導き、あなた自身を見つめさせてくださるでしょう。
そして、今までに気づくことのなかった自己に出会うこととなります。
その自己に出会得たならば、自己を見直す余裕となり、明るく落ち着いた生き方が噴き上がってきます。」
私たちは、お念佛をお称えする中で私のかけがえのない尊厳に出遇えるのです。