会長法話

勝部 正雄 前会長 ほのか4

ネガティブの能力

人生の日常生活には、さまざまな苦悩が影のように付きまとうものです。

 その中でも和やかに共に暮らした人との別れは、言葉で表せない実に辛く悲しいものです。

 昨日まで話もし食事をしていた人が居なくなることを、どのような心境で受け入れたならばよいのでしょうか。

 愛別離苦を通して経験する心境は、懴悔と感謝ではないでしょうか。

 現実に去来する心情は、逝った人へ不十分な関りでしかなかった私の懴悔であり、その一方で逝った人が私のためにしてくれたことへの感謝ではないでしょうか。

 生前に我が身を忘れ、私のために尽くしてくださったことを見るたびに胸に吹き上がる想い出があり、日常の作務の姿を耳にするたびに心の波動はしきりと起こります。

 その切ない波動により、揺り動かされる涙は、申さずにはおれない念佛となり、逝かれた人を前に「懴悔滅罪ならしむる」と受け止めさせて頂けるのでしょうか。

 愛別離苦ではなく、病の苦悩についての御法語ですが、法然上人は

「佛の御力は念佛を信ずる者をば、転重軽受と言いて、宿業限りありて重く受くべき病を軽く受けさせ給う。況や、非業を払い給わんこと、ましまさざらんや。」

 阿弥陀佛の御力は、念佛を信じる者を、過去の報いが定まっていて、重く受けるはずの病をも、軽く受けるようにして下さいます。ましていわれのない禍いを防いで下さらないはずはありません。と説いて下さっています。

 仏教徒の祈りとは、懴悔と感謝の祈りであり、「ネガティブの能力」マイナス・負の能力ではないでしょうか。

 一般的に言う能力とは、自己を中心として外界へと働きかけ、事を行う力、ポジティブの能力のあることを申しています。

 それは、勉強ができるとか、お金を儲けるとか、多くの財産を所有したとか、試合に勝ち進むとか、世に名を成すことを表しています。

 これに対して、佛の前に座して自己が自己を見つめ、さらに、心からなる南無(自己を放下)をして、謙虚に懴悔と感謝をし、私が育てられ生かされている今・現に私が在らしめてくださっている、大いなるものへの祈りをささげることではないでしょうか。

 その意味でネガティブ能力とは、真理へ繋がる能力とも言えます。

 佛に南無する時、私の心が真空と成り、如来力(佛の智慧と慈悲)が入り、佛智の成せる業が働いてくださるのです。

 それゆえに、自己の能力を働かせるのではなく、如来力を感得して佛の智慧・慈悲が働いて下さっていることになります。つまり、感得するというよりも「佛により感得せしられる」ということが起こって来るのです。

 世の成功者は、すべて優れた能力と一途は精進を成して大成するものでしょうが、それだけではない。前生の業の成せる果でもありましょう。

 しかし、それ以上に無心に専念する境地へ如来力が入り「なさしめられる技・感得せしめられる業」もあることでしょう。

 いずれにしても、謙虚に懴悔と感謝の思いを保持し、欲望や執着の自我が「変更せしめられますよう」に帰依致さねばなりません。

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