会長法話
今日から明日へ
1856年(安政3)着任したばかりのハリスは、下田近郊の下記策を訪れ「柿崎は小さくて貧寒な漁村であるが、住民の身なりはさっぱりしていて、態度は丁寧である。世界のあらゆる国で貧乏に付き物になっている不潔さが少しも見られない。彼らの家屋は清潔さを保っている。」
その後の滞在で「この土地の住民も豊かではなく、装飾的なものに目を向ける余裕がない。それでも人々は楽しく暮らしており、清潔で日当たりもよく気持ちがよい。世界のいかなる地方においても、労働者の社会でよい生活を送っているところはあるまい。」
「私はこれまで、容貌に窮乏をあらわしている人間を一人も見ていない。子供たちの顔はみな満月のように丸々と肥えている。」「社会階級としては第一に貧しい。しかしこの貧民みは、悲惨な兆候を示してはいない。最も満足すべき状態にある。」
同じころに来日している数名の異邦人たちも、長崎・神奈川・小田原・肥前・筑前・津軽・・・の記録に「貧困であるが、忍耐強い労働者と、肥沃な土壌と、底抜けな明るさ」に驚嘆されています。
1899年(明治32)に23年ぶりに再訪したフランス人画家レガメが、東京の職人街を散歩した時の記録に「釘づくり職人とその家族が、私を受け入れてくれて、報償の期待もなく、ひとにぎりの釘をくれたのである。手なめきでしか話せなかったことが大変もどかしかったが、私は深く感動した。親切であり機嫌がよいのが、この人たちのモットーであるらしい。女性たちは慎ましく優しく、子供たちは楽しげに、皮肉のかげりのない健康な笑い声。私がどんなに彼らが好きであるか、おそらく知るまい」「おのれが幸せである者は、また人を幸せにする者であり、ここに輝いていたのは日本の古き庶民世界の最後の残照であった。」と記されています。(このような記録は枚挙にいとまなく、ほんのひとコマで)
このような人としての豊かさは、今日のわが国でも、もはや眼にすることはありません。現実は、その対極の「自他断絶の世」となり果てています。
「両脇にくっついた幼いわが子が震えている。妊娠6ヵ月、東京駅の構内に座り込み
真冬の夜をじっと耐えた。行き交う人の一瞥が刺さる。だれも助けてはくれない。」アフリカからの難民申請者の声。(日本には難民申請者の生活保護法制度はなく、法の裏づけがない保護費はあるが、審査が厳しく路上生活者となっている現状)母国を逃れ必死に助けを求めた人々が、日本では難民者となる国なのです。
このような「自他断絶」の発想は、17世紀の英国哲学者フランシス・ベーコンは「人間知により自然界を研究し征服することが、文明の理念であり」、自己を含まない「対象を征服することが自己の幸福を産む」という発想が世に進展してきたのです。
それに追い打ちをかけるように19世紀の唯物論哲学者フォイエルバッハの言葉「昔は神が人間をつくった。今は人間が神をつくる」との論が、現実の近代文明を動かしている「科学」の基盤にあり、人間を超えた「叡智と能力の実在」を否定し、傲慢な自我による「人間至上論」の信仰の上に現代社会は成り立っています。それにより、「物質こそが唯一の基本的実在であり、生物は物質界の一現象・属性にしかすぎない」という思考が、近代文明の基盤となっているのです。
この思想や世界によって、たとえ一時的な気休めや短時間の喜びがあっても「老いや病や死の悲嘆や苦悩」の課題解決に至ることはできないでしょう。同じような悲嘆や久野の中にあったとしても、諸佛諸菩薩の加護に抱かれ、その意味するところを体験し認識し実感され、涙の中に永劫に尽きることのない安穏の境地が開かれて往く、生命へと更生されるのが佛道であります。
法然上人のご道詠に「いけらば念佛の功つもり、しなば淨土へまいりなん、とてもかくても此の身には、思ひわづらふ事ぞなき」と。
人生最悪の身となったとしても「思ひわづらふ事ぞなき」と言う幸福は、なくならないのです。
「佛縁あること有難し」の実感が念佛の中から噴き上がり、一生出会えなかった阿弥陀如来の実在に会うことができるのです。
この私が・・・不思議なことです。
このように永劫にわたる不動の地盤の上に、「逝きし世の面影」が今も存在し得ていることに気づかされますとともに、難値得遇・順彼佛願故の人生を歩ませて頂きたく、共々に願い今日の佛道を歩ませていただきましょう。合掌