会長法話

勝部 正雄 会長 ほのか5

心をとどめて思うべきなり

 人には「祈り」の姿があります。

 その祈りの多くは、欲望・願望が叶えられますようにと云う願いで、そこには外側から見返りを心待ちする想いがあります。

 このように現世利益的な祈りについて、法然上人は次のご法語を示されています。

 宿業限りありて受くべからん病は、いかなる諸の佛・神に祈るとも、それによるまじき事なり。祈るによりて病も病み、命も延ぶる事あらば、誰かは一人として病み、死ぬる人あらん。

私へ、今、届けられている生命の中に、良くなかった今日までの過去の生き方の結果が表れているのであり、それにより病気にならしめられているのであります。その生き方について、決定業として免れ得ない結果に至る生き方と、不定業として予防や注意をはらえばまぬがれる生き方があります。

もし決定業の結果としての病気ならば、それは、たとえ佛・神に祈るともうけなければならに業(生き方)の結果ですから、「心から受けること」を受け止めるべきです。

上人のご法語には、

「佛の御力は、念佛を信ずる者をば、転重軽受と云いて、宿業限りありて重く受くべき病を、軽く受けさせ給う。況や、非業を払い給わんこと、ましまさざらんや。」

(阿弥陀佛の御力は、念佛を信じる者を、転重軽受と云うて、悪業の報いが定まって重く受けるはずの病を、軽く受けさせて下さいます。ましていわれのない禍いを防いでくださらないはずはありません)ともあります。自我の願いや思いを外に求めて叶える計らいを停止させ、我が生き方を振り返り反省することが大事なのである、と解いて下さっているのです。

これよりも重く受くべき病をば  軽く受けさせ 給う御佛

「転重軽受」を説いてくださったのは釈尊の「涅槃経」であり、さらに、上人の実体験により説示くださっていることであります。

 さて、佛教徒の祈りとは、どのようなものなのでしょうか。

 今日の日に起こってくる善悪双方を含むすべての事柄は、私の過去生の結果であることを静かに内省し、佛前で懴悔(南無阿弥陀佛と称名念佛)することです。

もし、それが悪業であると深く自覚されたならば、それに併せて、佛はその念佛する我を、絶対に見放すことなく確かに寄り添いお導きくださることであります。

 真理の光に照らされて今まで見えなかった自己を知るとともに、自己の内なるところにある悪業が佛の大慈悲により許され、導かれ、慶びを頂くことでもあります。

 上人はご法語で、「自己は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫より巳来、常に没し常に流転し」てと、まず私自身を深く見つめることを示されています。そして、「初めに我が身の程を信じ出離(煩悩の苦悩から離れ出る)の縁あること無し」の私であることを知らせて下さっています。

 そして、その自覚の後には「佛の願を信ずるなり」と、許しと救いが用意されていることが説かれています。

 その後に再度、「ただし後の信心を決定せしめんがために、初めの信心をば挙ぐるなり」(『往生大要鈔』)とも示して下さっています。

 阿弥陀佛の許しと救いが、「出離の縁有ること無しの私である」と、自覚した人にのみ開かれてゆくことが明解しています。

 浄土宗における「祈り」とは、このように、阿弥陀佛の御前にて私の生きて来た日々を深く振り返れること(懴悔)により、新しい私へと校正されていくことであります。

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