会長法話

勝部 正雄 会長 ほのか13

明治維新前後②

 世の変化は、いずれの時にもいずれの人にも気付かれない風景を現し、移り変わっていくものです。

 まさに、江戸文明も「逝きし世の面影」へと化したのでした。

 1859年、ティリーは函館の寺院で「役人とか地位のある男性の姿は見えず、貧乏人と女性の参詣者」であると記しています。

 また、英国函館領事のホジソンによれば「16か月寺の近くに住んでいたが、参詣者の大部分は婦人と子どもと下層の人であることに気づいた。男子は主として大した数ではない」

 江戸の幕末期の世の変化が見えてきたことを、バードは「破綻した虚構にもとづく帝位、人々から馬鹿にされながら表面上は崇敬されている国家宗教、教養ある階級にはびこる懐疑主義、下層階級にふんぞり返る無知な宗教者、頂点には強大な専制をそなえ、底辺には裸の人夫たちを従え、最高の信条はむき出しの物質主義であり、目標は物質的利益であって、改革し破壊し建設し、キリスト教文明の果実はいただくが、それを稔らせた木は否定する帝国-いたるところでこういった対象と不調和が見られる」と表現しています。

 しかし、知識階級の宗教心の欠如は明治という新時代の動向だけあるとも言えなかったと考えます。

 むしろ、江戸時代中期の国学・儒教的合理主義(朱子学)等の現実対応の理念(上下の秩序・忠孝思想)と併せて陽明学(知行一致の実践による主体性確立)等が武士階級へ浸透し、その影響が大きかったと考えます。

 それらの思想家として本居宣長・平田篤胤らは、古代の日本を理想とし、佛教は外国思想により排撃し、富永仲基は佛教の伝来の途中で大乗佛教が創られたものであると佛説を否定し、また山片蟠桃は地球説から須弥山論を否定し、水戸学派の会沢正志は寺院・僧侶は世の浪費にしか過ぎないと、佛教排除から消滅への動向を発しています。

 「世の上層部、特に知識人の間には神道にも佛教にも関与しない人が数多く見かける。彼らは外見的には神仏信仰を斥け、孔子の教えの範疇に多少の修正を加えたもので、無心論者とみなされている。」と慶応年間の観察に記されています。

 その風潮が「佛を廃し釈迦の教えを毀つ」と唱え、世を変える運動となり、併せて時の明治政府が法令を発し、各地で仏像・経典・寺院を破壊・焼却したのです。これが「廃佛毀釈」ですが、この全貌は未だ不明のまゝとなっています。その原因は、僧侶の堕落よるとも説明がありますが、それは、真の原因を隠すための放言にしかすぎなかったと思います。

 この廃佛毀釈により、強靭な自我に頼る貪欲な方向へと進み、日本佛教に、そしてその後のわが国の国運すべてに、実にこの上ない悲惨な結果をもたらせたこととなりました。

 幕末に至った時、異邦人たちが観察した「江戸文明」は、実に高度なひとつの完成を見た文明であったと高く評価しています。

 それは、江戸文明の「成員たる庶民の親和と協調感。与えられた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念。月日の運行と四季折々への年中行事の生活化の仕組みにおいて、異邦人を賛嘆へと誘わずにおれない文明」であったからです。

 それは、現代の私たちにあっても、同じように賛嘆させられるにはおれない文明でありました。

しかし、リンダウの一文に「無信仰へ向かった強靭な自我の遂行による変化は、実利の価値観を求め、想像を絶する悲嘆に遭うことは疑えない」「文明とは哀れみも情けもなく、行動する抗し難い力である。それは暴力的に押し付けられる力であり、その足跡に血と火の文字が数えきれなく書き込まれていくことを」と記されています。

 現代を顧みれば、まちがいなく今なおその影響下にあり、苦悩は消えることなく長く続き、終わりなき破綻へと向かっていることも気づくことなく、未来への心痛を感じさせます。

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