会長法話
明治維新前後③
明治維新前後のある旅行者の一文と思うところに、「混沌・離脱・不調和・異常・無秩序の様相を幕末・明治初期の社会の裏面からひろい出す志向は、時代構造そのものが生み出す流行の言説となっている。」「だが私は、幕末・日本の地に存在した文明が、たとえその一面にすぎないものであったとしても、このような幸福と安息の姿を示すものであったことを忘れたくはない。なぜならば、もはや滅び去った文明なのだから。」と残されています。
1889年(明治21年)の秋に来日したアーノルドの、東京クラブでの語りが記録されています。
「日本には、礼節によって生活を楽しいものにするという、普遍的な社会契約が存在する。誰もが多かれ少なかれ育ちがよいし、騒々しく無作法だったり、何か要求するような人は嫌われる。すぐかっとなる人、いつもせかせかする人、ふんぞり返って歩く人。古風な礼儀を身につけているこの国では、居場所を見つけることができないのである。気持ちよく過ごすための共同謀議。人生のつらいことどもも環境の許すかぎり、受け入れやすく、品のよいものにたらしめようとする合意。洗練された振る舞いを、万人に定着させて受け入れさせるように、こんなにも見事な訓令。子どもへの優しさ、両親への尊敬の念。異邦人への丁重な態度戸等。それが、その一部であったとしても、この国以外のどこに、このようなものが存在するというのか。」
ここには江戸文明の流れを受けた人々の姿が記されています。
諸行無常の世にあって、有限的存在の自己であると気づいたならば、自己の生き方を見つめることができた庶民の世だったのです。しかし、その気づき、道理にそって生きることが可能かと問うと難しいものです。
されども、さまざまな人との交流は、言葉・作法・動作でもって諭し、至らない自己を自覚する縁とし、より善く生きようと願う人たち、連帯の絆によって矯正されていたのでした。そして和合の知恵に学び、そこに個としての自我の判断を超えた連帯のぬくもりがあり、抱かれて生きる江戸文明が踏襲されていたのです。
受け難き人の身を受け、佛縁に会うことが難しい世に生き、発し難き道心を起こして、生きる道が用意されていたのでした。
このような、江戸文明の宗教感情の真髄は、日常生活に浸透し、形式的な宗教理法の枠外にほうり出されているように見えても、確かな足取りで庶民の中に明るく息づいていたのでした。
一日に8里の道中を歩くという強行な霊場めぐりに参加し、「この信心こそ身は軽く、心もすっきりさせる信仰です」と遍路の声。仲間との浮世話や軽口もさることながら、称える念佛で同行二人の道ゆきとなり、単なる物見遊山ではなく、凡夫と佛の同行二人。
「この参詣者たちは俗世間の往来において、佛との結縁者となり、俗世間の絆から離れた行者」となっていたのです。「本願の名号は、木こり、草刈り、菜摘み、水汲む類ごとき者の、一文不通なるが、称うれば必ず生まると信じて、常に念佛申すを最上の機とす」と法然上人は説いてくださっています。この道中での日常的空間にある、非日常的次元に信仰が成り立っていたのでした。
いかに、廃佛毀釈があれど、寺院を壊し仏像を焼却し世は変革したとしても、佛教は消えることなく生きつづけていたのでした。