会長法話
私とは、どのような人?
私をとどめて自己を振り返ることの少ない私たち。現代人はどのような者であるのか、自分のことながらあまり詳しくは知らない者であります。
しかし、私以外の現実への働きかける能力については常に向上をめざし、そして、利益を手に入れることについて深く熟慮している者であると言えます。これが「ポジティブ能力」でありその能力が現実社会での価値として明治維新以降承認されてきました。
ところが、私が生存している理法や私が今に生きている意味などは問うこともなく、私が「生きている原点」についてはさほど知らないままに空洞化している様相ではないでしょうか。
私は、なぜ今いかされているのかという真理を求めることもなく、有限的な生命をどのように長寿化するのか。無常的な身体であるにもかかわらず、どのように不変な自己と成れるのかとあこがれています。そこでは自己の内側を見ることなく、一時に消えゆく外側の興味とそれに誘われた快楽さと便利さと視覚的な美を求め、迷っている有様はないでしょうか。
今日の現在人は、果たして最高の叡知(記憶・想像・思考の力をもって論理・実践に基づいて諸課題を解決する能力)と情緒(おりにふれて起こるさまざまな思い)を持って、事に仕えているのでしょうか。
それよりか、自己に基づいて機能している世界観や人生観は、果たして真の望ましい未来を構築できるのか。考えることなく現実への対応に明け暮れています。
私はここに生きている、と実感し生きています。その私の周囲にはさまざまな物質世界があり、また、さまざまな生物が生きています。それらの宇宙・自然・社会・周囲とは無関係であるという思いで生きています。
そして、その根底にある自我という意識は有限的・無常的な存在とは気づかず、常に自己は不変なる者と信じ、直感的な思いが正論となり、自己主張は当然な権利と思っています。
そして、自分の周囲の物質界・動物界・植物界・人間界・自然界等から利になるものは、妄語(うそ・いつわり・無視)し、強奪(無理やりに暴言暴力でうばい取る)し、不利益になりものは排斥し殲滅(残りなくすべて打ち滅ぼす)しなければならない。これが生きるということであると本能的に確信しています。
そして、経済力・組織の支配力・統率力・名誉欲・際限なき所有欲を求め財産欲を満たし、それに伴い食欲・性欲・睡眠欲等々の人間の本能欲の満足を傲慢に求め、私の幸福に至る道と直感しています。
そこには強硬(自己主張を徹底させる)な自我があり、様々な無理があったとしても一切振り返ることのない状況が現に起こっています。
まるで、ブレーキのないアクセルのみに頼り、利のために当てなく暴走している状態ではないでしょうか。
その結果、さまざまな分野で危機的な状況を呈しています。例えば、年間所得1億円と2~300万円の不平等・自己の能力が発揮できず引きこもりに陥っている人の数。それらはすべて自己責任であると見放されている状況と、その危機的状況に警鐘することもなく、一部の特権階級においては不正も承知される環境は整っています。
その上にこれが輝かしい世であると認め、作られた笑顔・花盛りの情報の発信。一般の人々はそれに誘われ巧みに誘導され、その結果に自己喪失と成り果てている現状は、いかがでしょうか。その創られた環境に汚染され、その間に傲慢な権力が巨額の防衛軍事力を高め、国内へは徹底した国民の管理体制へ猛進している現状はないでしょうか。
現代人は、どのような世界観を持ち人生観を持って生活しようとしているのか。人として、どのように心して生きてゆけば良いのか。求める幸福とは何であるのか。今生、一度限りのこの人生において、何を心の糧・支えとして生きるのか、を改めて振り返ることが必要ではないでしょうか。