会長法話

勝部 正雄 会長 第二回

実在性の世界

①有為の世

 佛教とは、生活そのものと関わりながら今日の日を全うすることが前提とされています。

 その教えを顕著に明らかにされたのは、鎌倉時代に出られた法然上人を始めとした、それにつづく祖師たちでした。

それにより、徐々に日本民族の日常生活に佛教が定着して19世紀まで受け継がれてきました。そして、その著しい一例として、元号が変わった平成の始めのころ、一般の方々の臨終において亡くなられる方に「いいところへお参りさせてもらいや・・・」と家族そろってお念佛をされていたことでした。

ところが、今世紀に入り、臨終の向こう側に開かれる世界はなくなり、この世だけとなり別れのみとなってきました。「亡くなられた方を、お念佛をお称えして送らせていただきましょう。お浄土の世界へお導きいただけます。」と申し上げましたところ、ご家族の方が「枕経の時、和尚様が申されたことは信じられません。本人はもちろんのこと、そうは思っていなかったでしょう。残された家族の癒しのために勤行があると思っています。死後の世界の存在はどうしても信じられません」と話されたことがありました。

「現代の人とその世相」には、人生と宗教・生活と佛教・家族と信仰の構図は消え、宗教と日々の生活の関りはさほどないと見受けます。

「宗教がなくても生きて行けます。何ら差し支えることはありません。学校で学ぶこともなく、その必要性など思ったこともありません。」「宗教とは、迷信ばかりでしょう。極楽や地獄など無い世界を説いているだけでしょう。私は全く無関心です。人生の無駄と思います。」就職された青年との会話で耳にすることもありました。

宗教に対して無関心・無視の範囲を超え、「宗教は人々を惑わせる阿片です。もし、あるとしたならば自己中心的な願いや祈りぐらいでしょう。」と言う意見すらあります。

このような思いや考えが、現代人のなかに随分あるのではないでしょうか。すばらしい世界を構築した現代人は、何か重要な世界を見失ってしまっているのではないでしょうか。めざましい発展をとげた「実在性の世界」のみで、この世が成り立っているのではありません。

もう一つの世界があります。

この世にある実在性は無常的であり有限的な世界にしかすぎず、もう一つの世界とは、「この世の実在性の世界」を創り出している仮りの世に比すべくもない「真実の実在性の世界」です。その世界は「いろは歌」に示されています。

色は匂へど散るぬるを

我が世誰ぞ常ならむ、

有為の奥山今日越えて、

浅き夢見じ酔ひもせず。

 この歌に示されている「無為の世界」を認識できたならば、この世で生きる知恵を得ることができるでしょう。

 矛盾つづきの人生にあって、もう一つの世界を垣間見たならば、短絡的に見ているこの世の「実在性の世界」が、実に不真実であり、無意味であることが・・・順次にわかることでしょう。

 それに関わらず、この世の佛教信仰が衰退してきた現状は何によるのでしょうか。

②人間疎外状況

 明治維新から始められた近代化は、産業振興とそれに協同する臣民としての精神・態度・行動への教育にあったと考えられます。

 その教育によりわが国の近代人が育成され、著しい産業発展を成しとげました。

 それは、民主化を実現する原動力となったものの、社会的不平等という弊害をも興す結果となりました。その課題解決にも至らず、さらに、世にさまざまな課題を産み出しました。それらの現状の底流に「人間の疎外」が横たわっていました。

 「人間疎外」とは、人が機械を構成する部品のような存在となり、人間らしさが無くなることを表しています。

 社会とは、人の集まりであり人の意思により運営される集団です。

 しかし、その中で科学技術が発展すれば、その運営は機械により進められる現状となり、人の意思で運営されるべき社会が、逆に機械がなければ運営が果たせず、それにより機械を活動されるために人が働くという状態が出てきたのです。

 人間が機械を使う、と同様に機械が人を使い、機能する形が現れてきました。これが「人間疎外」です。

 そして、科学による技術は進展すれば、巨大化した機能の働きの中では人は一つの歯車となり、人としての主体性や尊厳が喪失された状態が起こります。

 この現状が「アトム化・原子化」という用語です。

 すなわち、「人間疎外」とは人間が自己の作り出したもの(制度・組織・生産物)により支配される状況であり、さらに、利害打算の関係によって人間性や人間関係が喪失されつつある状況を表しています。

 現代社会に現存している私たちは、この環境の中に身を置き生活していますが、そこから興る「自他断絶」の様相が著しく現れています。

 自他断絶・孤立化による自暴自棄の事件があとを断ちません。自ら死を望み、その手段として無差別に殺戮するような見境のない悲劇が続いています。

 容疑者の供述には、人生に対する絶望があり、世に対しての妬みあり、そして未来なく、その一方では欲心が煽られ、叶えられない閉塞感がある。その爆発現象のような事例がつづいているのです。

 このような事件には至らずとも、そのような思いを持っている人が幾ほどいるのか。それを思い考えると胸が締めつけられます。語るに友もなく、生きるに金もなく、すべては自己責任となる身に成す術もない状況が余りにも多く、社会の危機管理の限界を超えています。

 人間疎外状況は、自他断絶、唯物論的発想と思考、一面的合理性の追求による変化がますます拡大を続け、それにともなって、人類の何か重要な世界が見失われてきたのではないでしょうか。

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