会長法話
勢至の求めゆく道が開かれる 菩提を求め人生の四苦八苦からの解脱を求めて・・・
母としての秦氏の嘆きはこの上のない悲しみであったことでしょう。
しかし、勢至の本心を了解された母は、わが子との別離を覚悟されて比叡の山へ送られたことでした。
叔父であり師の観覚は、西塔北谷の持宝房源光のもとへ「進上、大聖文殊菩薩像を一体」との書状を持たせつかわされました。
久安3年(1147)2月13日、15歳の勢至は京に着かれ、その途中で摂政の藤原忠道(ただみち)公の行列にお出会いになられ、道の傍らに控えていた勢至に忠道公が会釈をし通過されたとか・・・。後に忠道公は「出会った子どもは眼から光を放っていた。だから会釈をしたのだ」と申されたことでした。
そのお方こそが、(法然上人となられたのちにお出会いされた)九条兼実公の父であったと。何と尊い仏縁でしょうか。
2月15日、比叡の山道を眺めながら、西塔北谷の持宝房源光のもとへ到着しています。師の源光は、書状の通りの聡明な子どもと承知されたことでした。
「こころみにまづ『四教義』をさづくるに、籤をさして不審をなす。うたがふところ、みな円宗のふるき議論なりけり」と・・・
『四教義』という書物を授けたところ、2ヵ月後、一読されたのちに難解な4箇所にしるしの札をはさみ問いただされたのでした。その箇所は、どれも古くから論じられてきたところだけに、たちまちにして「普通の人ではない」と噂され、一方、師の源光は「われはこれ魯鈍で浅才の者ゆえに、早く碩学につけて天台の奥義を学ばせたい」と願われたのでした。
よって、4月8日、東塔西谷功徳院の阿闍梨皇円の許に入室されたのでした。皇円は「昨夜の夢に、満月が私の部屋に入るのを見た。今このように仏道修行の才能をもつ少年が入ってきたことは、その前兆だったのだ」とお喜びになられました。皇円は「当時の明匠、一山の雄才なり」と仰がれていた師であり、『日本史書』を著しておられた比叡山第一の学識者であり、その師の環境は当時の最高学府でした。
同年11月8日、勢至は念願の髪を剃り衣を着し、さらに戒壇院で大乗戒を受け出家されました。
母と別れて8カ月余りで、父・時国公の願いの一端に至られました。
しかし、このわずかな月日であっても、故郷にいます母はいかにお過ごしのことかと思われたに違いありません。時国の居ない淋しさと、勢至の居ない悲しみの美作の日々。身に心にいのちに耐えられないくらしであったと思われます。
「勢至、おめでとう」と出家の祝福とは打って変わり、その数日後、お母さま(秦氏)はご逝去されています。臨終時、母はいかなる状況だったのか。はたして善知識ありや?
母の人生の底流にある四苦・八苦からの解脱はいかに。
父(時国)の遺言と共に、母の深い悲嘆と苦悩。そこからの解脱が勢至の求め往く課題となったことでした。
合掌