会長法話
生まれがたき人界にうまれ
勢至の隠遁の願いが叶い、西塔黒谷の慈眼房叡空上人を師として、その庵(いおり)へ入室されました。
その時の様子は『法然上人行状絵図』に次のように記されています。
幼稚の昔より成人の今に至るまで父の遺言忘れ難くして、永久に隠遁の心深き由を述べ給うに「少年にして、早く出離の心を起こせり真にこれ法然道理の聖なり」と随喜し法然房と号し、実名を源光の上の字と叡空の下の字を採りて、源空とぞ付けられる。と。
これにより、勢至は若くして迷いの世界から離れ、真理を明かしたいとの願いを秘めている青年であると、叡空上人は見通され命名を授与されました。
ここに『法然房源空上人』となられたのでした。
「房」とは、僧侶の住まいを示す言葉です。当時、互いに房号で呼び合っていたのでしたが、仏法の真髄を求めて止まない本性を、称賛された言葉であると拝察いたします。 「法然道理の聖」とは、「自然法爾の僧」であることを明示した言葉であると言えるでしょう。
法然道理とか、自然法爾とかは何を語っているのでしょうか。
まず、自然とは、山、川、海、草木、動植物、昆虫・細菌・雨・風・空の現象等を表し(人の作為・行為によらないで)存在するものや現象するもの、また、それらの様子を表しています。
法爾とは、法に基づいて、そのようにさせることや、そのようにあらせることを意味しています。一例をあげるならば、一粒の種子が、ある環境が整えば土から芽を出し、それでしかない本性に基づいて成長するように、おのずから法によって成りゆくことを表しています。
それでは、今日の私たち自身、その自然なり法爾なりをどのように受け止めているでしょうか。
私たちの認識能力(ものごとを知る能力)は、主として五感覚(見る視覚・聞く聴覚・嗅ぐ嗅覚・味わう味覚・さわるとかふれる触覚)によりなされ、その中でも視覚が主となっています。それによる観察と経験によって得られた事実を、私たちの理解能力で整理し、そこに潜む法則や原理を掌握し、知識を形成しています。その掌握した知識や法則・原理を応用し、利になるものを求め、私たちの生活を豊かなものに進展させ、その利を享受(自分のものに)しているのです。この認知能力により私たちは、人間が万物の霊長であると自負してきたのでした。
その認識能力が、わが国の明治以降の学校教育の大前提となり、今日の世を築いています。
しかし、その能力でわかる世界とは、「人間の五感覚で掌握できる範囲内のこと」だということを認識しなければなりません。それでわかる世界とは「物質世界」のみではないでしょうか。
物質を生み出す、数え切れない見えない世界が無限にあることを知らなければなりません。
また、「物質的法則」のみではなく、その根底・基盤に「いのちの法則」の世界があるのです。そこを見落としてはいないでしょうか。
見落としているならば、私たちはこの世の一面の掌握だけであり、全体を見るにはほど遠く、存在の全体把握には及ばないのではないでしょうか。
人という姿を知ることができますが、それでは生きている生命・心が見えない(知らない)こととなります。そこから噴き出している世の悲劇はあとを断ちません。いかがあるべきなのか、この原点に視線を留め熟考することが急務であると思います。
さて、法然上人は比叡山へ上がられてわずかに3年余。
師の叡空上人のもとに落ち着かれ、日々に佛法に出遭えた喜びを感得されていたことでしょう。そして、それだけではなく、法然上人の出家に次いだ隠遁は、私を生み・育ててくださった生命世界の理法と真理を求めようと希求されたことに起因していたことでしょう。
大慶の思いに至られたことは・・・のちの『登山状』に
「まさにいま多生広劫をへて生まれがたき人界にうまれ」と記されています。
この一節は、永い永い生命の流れを受け、今生において人間界に生を受けたこと。
「これにまさる大慶なし」と受け止めておられる言葉です。
また、この「人界にうまれ」たということは、「大海原の世界で遊泳している亀が、一呼吸のために海面に頭を上げ、そこに節穴のあいた流木があり、その節穴に頭を入れた」確率の如しと説いています。
この確率は、自我の思考・理解・認識の範疇をはるかに超えた存在の神秘であり、その瞬時が今の私でもあります。
すこやかに生かされている今の瞬間。実に、人として慶ぶべき原点に護られていることを忘れてはなりません。
合掌