会長法話

勝部 正雄 前会長 第13話

青龍寺での隠遁生活

十八歳の法然上人にとって念願の比叡山・西塔・黒谷の青龍寺での生活が始まりました。

勢至という名から、新しく法然房源空に変わり、本格的な佛道修行に入られました。

そのようすは『法然上人行状絵図』に、「ひとえに名利を捨て、一向に出要を求むる心(こころ)切なり。これによりていずれの道よりか、この度確かに生死を離るべきということを明らめんために、一切経を披閲(ひえつ)すること数遍に及び、自他宗の章疎(しょうしょ)、眼にあてずということ無し。恵解(えげ)天然にして、その義理を通達す」と記されています。

「ひとえに名利を捨て」とは、名誉になることや利益になることなどを一切求めず、得をしたとか損をしたとか、良い方を求めず、一途に日常生活から離れ、人としてどのような生き方が最も望ましいのかを求められたのです。

「確かに生死を離るべきということ」とは、世俗的な生活から離れ、真実・真理とは何かを求めることを指します。そんなゆるぎない志をもって、師の叡空上人に就かれたのでした。

叡空上人は少年のころから融通念仏の良忍上人に師事された方で、その師から円頓戒の正統を受けられた上人でした。

その正統を法然上人は継承され、後の生涯において円頓戒を授けられています。また、瑜伽密教の法にも通じた師でありましたから、真言と戒律も学ばれました。 

それだけではなく、この黒谷には恵心僧都源信が横川で始められた二十五三昧会(さんまいえ)が伝承されていました。

当時、その修行を求めて念仏聖が集まり、自らの出離をめざす集まりがあったのです。

そのことから、叡空上人の指導のもとに三昧会の念仏と円頓戒が生活の底流にあり実践されていたと思われます。

この三昧会を創始された恵心僧都源信が著した『往生要集』の修学を、師の叡空上人から受けることができたのです。

『往生要集』は源信四十三歳に書き始め一年後に完成しています。これは百六十余部の聖典や論疏から九五二の要文を十門にまとめられ「道俗貴賤、誰か帰せざる者あらん」と、この書物の目的が記されています。

この書物は、仏教のみならず日本文化の基点として各分野に大きな影響を与えました。

内容は表題の通り、往生ということですから極楽浄土へ生れ往くことが書かれ、その修行の要が明解されています。

けれども、どのような修行僧であっても、自己を見つめたならば完全に行ができるとは言えず、どの修行も困難を極めていました。それでは、十分に仏道修行のできない身はどうすれば良いか、という問いに「念仏」が最も適していると示されていたのです。

法然上人は、その『往生要集』の講義を師の叡空から受け、自らもより深く学ばれ、その学びはご生涯を決定する出会いとなりました。

このように、円頓戒・瑜伽密教・戒律・三昧会・『往生要集』等、修行法は重なりながらも、共通性のある教法であるだけに聖への修行は進んだようでした。

しかし、法然上人の求めている教法ではなく、煩悶の日々だったのです。

そのような生活であっても、青年・法然上人は時を費やし学問・修行に精を出され、ついに、インド・中国から伝えられた経典、そのすべてを熟読する決意を持たれるに至ったのです。

それらの経典は一切経、または大蔵経と呼ばれていました。

法然上人が手にされた経典は宋代の5048巻か、福州版の6424巻のいずれかと思われています。そのすべてを読破する、超人的な修学は、さまざまな修学と合わせ始められていたのです。ことに数年にわたり六千巻前後の熟読は数遍にのぼられたと記されています。

とても、人の世で考えも及ばないことだらけに、超驚きそのものでした。

それに終わることなく、天台宗の教学をはじめ、他宗派の経典も熟読されました。倶舎(くしゃ)・成実(じょうじつ)・律(りつ)・法相(ほつそう)・三論(さんろん)・華厳(けごん)・真言(しんごん)の教学に、学ばれたのでした。

青年の法然上人は、ひたむきに何万巻もの経典に、父の遺言に応えるため、自らが救われるために一途に求められたのです。それは、充実した日々であったでしょうが、その一方で真剣に「出離を求める」求道だけに苦悩・苦離が付きまとっていたことでしょう。

十八歳から数えること、七年間。約2500日の修行であり、また、比叡の山の生活に入っては約十年が経過したものの、なお求める法に遇うことができなかったのです。

しかし、私の願いは必ず叶えられるという見通しはますます強く抱いておられたのです。

合掌

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