会長法話
清凉寺参籠
黒谷に隠遁された法然上人は、叡空上人を師と仰ぎ弟子としてお仕えされました。行状絵図の一節に「佛法に私無きこと、哀れ侍り。
かかりければ、上人をもって規範として、師反りて弟子となり給いけり」とあります。
上人は仏法を求められるときに私情を一切はさむことなく常に何が真理であるかと問い、その答えに順じて応じられたのは誠に感心である。そのようなわけで法然上人を模範とし、叡空上人がかえって弟子となられた、と記されています。師弟ともに、真剣な修学であった七年間の経過が伺えます。ところが、保元元年(1156)上人24歳の春、叡空上人に暇を願い、十余年ぶりに比叡山から下山されました。
京の都は、十三歳の時に通過した程度でしたので、初めて見る都であったと思われます。下山されて京の西へむかわれました。めざすは愛宕山麓の嵯峨・清凉寺です。「七日参籠のこと有りき。求法の一事を祈請のためなりけり」とあるように清凉寺の本尊釈迦如来に求道を願うためでした。その釈迦如来尊像について次のような因縁があります。天禄2年(971)2月に東大寺大仏前において、僧奝然と義蔵が南都仏教興隆のために、将来、比叡山の寺院に並ぶ規模の大伽藍を洛西の愛宕山麓へ建立したいとの大構想を立てられました。
その後、奝然は入宋し、釈尊在世の御影を魏氏桜桃(栴檀)に刻まれたと伝えられる「生身の釈迦」とのご縁に恵まれました。その尊像をわが国へ招来したいと願い、それが叶い帰国し清凉寺の釈迦堂におまつりされたのでした。
その当時は、藤原道長はじめ貴族社会が栄華を極めていたころでした。東アジア文化の影響を受けたわが国で、独特な国風文化が最全盛期を迎えたころでした。この尊像は、日本でも中国でもない西方異郷の様式をもった等身大のお像で、生身の釈迦であると(事実は真実である。言葉は真実を伝えます。
生きて在します、との直感どおり。釈尊が生きて在します)仰がれ、京をはじめ天下の信仰を集められました。上人は、内に求道の志を秘め我が問いに・・・と切に願われ、その三国伝来の生身の釈迦尊像に深い思いを寄せられた七日間だったと思います。
生身の釈迦牟尼世尊の足下への参籠は、比叡で過ごした修行と経典に向き合ってきた年月とは全く異った雰囲気だったのではないでしょうか。子どもや女性や武士や商人や百姓や老人など、一般庶民は、一心に参詣して同座する姿を眼にされ、この世の現実を認識されたことでしょう。捨てられたかも知れない孤児らしき子どもの涙する姿。母親らしき女性の一心に拝んでいる様子、おさな子を亡くした嘆きなのか。深く傷を負っている武士の腕、戦に遭ったのか。すすや灰を被ったような男、火事場から逃れてきたのか。老婆がうずくまったまゝで動かない、生きているのか。母はどうしているのか、どこか似ている秦氏のような人。
みんな、合掌してお本尊を前に何かを口ごもり、成す術のない苦悩、時が止まったような悲嘆。すべて捨ててしまった虚無感。ある者は願い、ある者は嘆き、あるものは語る。
比叡の山で、こんなに真剣に願い訴え、一心に救いを求めている人々があっただろうか。僧たちは厳しい修行に打ち込んでいたが、それは所詮、自らの願いを成就する道であり、名利につながる過程ではなかったか。それとは異なり、出家して僧と成るということは、このような人たちを導き救うためではなかったのか。また釈迦牟尼世尊の教えとは、この人たちの苦悩・悲嘆を救う教えではないのか。
大衆の救済に応えることこそが真の仏教ではないか。24歳の法然上人は、改めて仏教者・僧としての深い自覚に至ったのではないでしょうか。学問・修行・堂塔伽藍も仏教には必要であるが、それらはすべて大衆の生命を救済するためにあるのではないか。
仏教の本命はそこにあると意を固められたのではなかったでしょうか。仏教は僧のあいだにあるのではなく、限られた人のためだけにあるのでもない。苦悩するすべての人々のくらしの中にこそあるべきである。併せて、佛の説かれている経典のどこかに現代の人々が真実にめざめ、生きて往く教えが説かれてあるはずだと見通されたのではないでしょうか。
この七日間の参籠の後、南都仏教の碩学を訪ねることになりました。
これは、生身の釈尊の導きであり、併せて、釈迦尊像を招来した母と同名・秦氏出身の奝然のご縁ではなかったかと思う次第です。
(清凉寺参籠のようすは師等から伺った説教の引用)
合掌