会長法話

勝部 正雄 前会長 第16話

開ける道はいずこに

 法然上人23歳の時(1156年)保元の乱、続いて26歳の時(1159年)平治の乱が起こり、世は騒然とした状況下となりました。
 この乱は400年間続いた摂関政治の終わりを告げる事変であり『愚管抄』の一筆に記されている「武者の世になりにける也」という武力による政治体制の機転でした。
 世の動きは秩序や法令ではなく、武力によらなければ動かない「政権は武力」へと変化していきます。
 釈尊は滅後の世を宿命通で見通されていたのでしょう。
 予言的に年代論を遺されています。滅後の500年を正法、次の1000年は像法、それ以降を末法と説かれています。
 永承7年(1052年)が末法元年と呼ばれています。
 そのような時代の受けとめ方と、さらに、1140年からの30年間で、地震の多発・大雨・洪水・彗星の変による赦の詔書を下す・三宅島噴火・寅方より彗星出現・霧島山噴火・悪疫羊病流行等天変地異が起こり、飢餓も相次ぎ世状の不安定な様相があったと想像します。
 さまざまな異変に遭い苦悩にあえぐ人々の跡は絶たず、その悲嘆を体験する人々は救世主の出現を痛烈に願ったことでしょう。
 その反面に、平安時代から踏襲されてきた裕福な貴族社会があり、その法要に連なり、立身出世の道を歩む僧も多くあり、盛大な浄土信仰としての不断念佛や堂内の幽玄な声明なども続けられていたのでした。
 そこには、教学と佛教論理と荘厳な法式の三部門が整っていましたが、出家の目標である、自らを深く内省して謙虚に仏道を極めようとしてする(解脱を求める)僧は少なく、静寂な仰信の道はかえって希薄であったのではなかったかと思います。
 しかし、飢餓・貧困・無智・愚鈍の者として佛教外に捨て置かれていた庶民を見つめて、僧位僧官に心引かれることなく、人々の一途な救いに応じられた再出家の僧(聖)たちもいたのでした。
 時はさかのぼること約200年前。聖たちの活躍は、鎌倉佛教の主客として「誰に対しても開かれた佛教」を起因するきっかけとなったのではないでしょうか。
 その先達としては、皇室の出身と伝えられている空也聖(972年・没・70歳)でした。
 伝承によると、尾張・国分寺にて出家し、念佛聖として庶民を教化し、帰依者を得て、道路・橋・寺院等を造り、各地を遊行し、40歳代に比叡山座主のもとで受戒。京都に縁があり、仏像造立や歓喜踊躍(かんぎゆうやく)の念佛踊り等、念佛行を多くの人々に勧められ、京の六波羅蜜寺にて70歳で示寂されました。
 このような情熱のある聖の教化により、庶民の中に浄土教の信者等も生まれ、(文学者の)慶滋保胤(よししげやすたね)は自身の浄土信仰を基にして『日本往生極楽記』(985年・日本で初めての往生記)を編集されています。そこには、極楽往生された45人の伝記を載せ空也の感化により「寺にも町にも道俗男女があまねく称名を専らにする」ありさまが記されています。
 それに続き大江匡房(おおえまさふさ)は『続本朝往生伝』(1100年頃)を、三善為康(みよしためやす)は『拾遺往生伝』(1132年)を、蓮禅は『三外往生伝』(1132年)を、藤原宗友は『本朝新修往生伝』(1151年)等を撰述され、佛の救済による解脱・往生の信仰が興隆したことが紹介されています。併せて、それらの著書は平安時代の浄土信仰の勧説となり、知識人に読書されたものでしょう。
 その後に出られた比叡山・横川の恵心院の源信僧都が、寛和元年(985年)に多くの佛教経典や論書などから、極楽浄土の要点をまとめられた『往生要集』1部3巻を撰述されたのでした。
 この書により、日本佛教の教学と天台・顕教の修行、それに密教の行法、さらに、救いの浄土教・念佛行が紹介され、比叡山の総合佛教としての僧侶の日常生活及び勤行に影響を与え、その行法が定着していったようです。
 朝には天台宗の根本聖典である『法華経』読誦し題目を称え、夕べには『浄土経典』と念佛を称える風習が出来上がっていきました。
 このように、≪源信僧都≫の輩出は鎌倉佛教の成立へ大きな影響を与えたのでした。
 『往生要集』には、厳格に一分の狂いもなき理法である「因縁果による縁起」が理解しやすく説かれ、解説への行法も明示された佛教世界観の書物として多くの人々を感化されたことでした。
 この書では、地獄と極楽、厭離穢土と欣求浄土の行法等が、釈尊の大吾を一心に仰信されて説き明かされています。
 称名念佛とともに深い瞑想を通じて開ける観想と、阿弥陀佛の色身を観佛するための観想念佛が示されています。
 比叡山で修行する青年・法然上人は、各『往生伝』や『往生要集』など閲覧・熟読されたことは当然なことでした。
 また、師と仰がれた黒谷の叡空上人は、大原へ隠遁され念佛行を修められていました。その師である融通念佛宗の祖・良忍上人は念佛行と円頓戒の師でもあり、法然上人の求道生活には浄土信仰が脈々と伝えられ流れていたのでした。
 釈迦堂参籠ののち、南都・洛中の世に名を轟かせた碩学を上人は訪問されたのですが、納得のできる教えに会うことができず、黒谷に再び籠ることとなりました。
 佛教伝来以降の佛教に、法然上人が求められる佛教はなかった、ということでした。
 上人が求める佛教とは、父・時国公の遺言に答える内容であること。
 そして、母・秦氏公との別れの悲嘆。
 されに、世のありさまで解決のない苦悩に苛まれている多くの人々の心・生命の叫び。
 それらは、すべて佛の救いの内容ではないのか。
 それを離れて佛教はなく、その課題に向かい、上人は一途に歩まれて来たのでした。

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