会長法話
偏に善導に依らん
比叡山は、平安時代から天台宗教理・密教・浄土教を含む総合大学のような組織と活動が営まれた霊峰となりました。
ある書物の中に「朝には法華の題目・夕には浄土の念佛」と記されているほどでした。
その後、伝統的な佛教の厳格な基礎が確立していた一方で、諸宗の修行や学問が行われ、また、指導的先駆者も輩出され、そこから日本佛教創見の鎌倉佛教が生まれました。
その中でも、法然上人に指南書として大きな影響を与えたのは、恵心僧都源信(げんしん)と南都三論宗系の禅林寺・権律師永観(ようかん)ではなかったでしょうか。
法然上人は文治六年(1190)2月に東大寺において講演されたと伝えられています。
その内容は『浄土三部経釈』においてその二人の師を紹介しています。
その一人者の僧都源信については、「『往生要集』を先達として浄土門に入るなり」と『一期物語』に記されているほどに、大きな影響を受けておられます。
『往生要集』を著わされた恵心僧都源信は、その著の中で、阿弥陀如来の浄土の楽(よろこ)びと地獄の苦悩をまとめられ、浄土に往生するために念佛行であると勧められました。
上人は、この要点を会得され、先の『浄土三部経釈』の中『無量寿経釈』の源信の記述に「これすなわち諸行を捨てて念佛を取る。取捨の意なり」と示され、すべての修行から念佛行のみを取り、その他の行は傍(かたわ)らへ置くと明解されています。善導(ぜんどう)大師の『往生礼讃』を述べて「ひたすら念佛すれば往生することを決択(けっちゃく)す」と称名念佛の確定が説かれています。
同じく『無量寿経典釈』の中で、東大寺の権律師永観のことについて次のように述べられています。
「永観は善導と道綽(どうしゃく)の考えに基づいて『往生十因』を作り、永遠に念佛以外の諸行を廃止して、念佛を申して往生する内容について、十要点をまとめている。永観の説く往生への行が、どうしてひたすら念佛を申す行ではないことがあろうか。(念佛を申す行において往生が決定するのである)」と、述べています。
この釈の一節に「あに但念佛(たんねんぶつ)の行にあらずや」は注目すべき一句ではないでしょうか。
「但念佛」とあるように、法然上人は律師永観を「専修念佛」の行を提唱された先師として敬慕されたことでしょう。
後に上人が述べられた「ただ一向に念佛すべし」の意がここにあると思います。
さらに『無量寿経典釈』に、東大寺の三論の碩学・越州の珍海(ちんかい)が紹介されています。
珍海も永観と同じく『決定往生集』を作り、往生の方法について明らかにしています。
その中で「善導の『観経疏』により、かたわら諸行について述べているが、往生行としては正しくは念佛往生を用いる」と示しています。
そして、「ここに知んぬ、往生の行業において専雑の二修を論じ、雑行を捨てて専ら正行を修する事は、天竺・震旦、日域その伝来尚しと云云。(訳・以上述べました往生するための実践について、専らに修める行と通常に修める行と、その二つの行を判断すれば、通常的な行は捨て専らに修める行を取る。それは、インド・中国・日本に古くから伝えられて来たことである)と述べられています。
このように『往生要集』の僧都源信も、『往生拾因』の権律師永観も、そして『決定往生集』を著した三論碩学珍海も、法然上人の求道により、中国浄土教の曇鸞・道綽・善導大師と法脈の機縁となったのでした。
この機縁は、上人が浄土三部経を何度も詠みかえされ、中でも称名念佛が説かれている『観無量寿経』を熟読され、さらに但念佛の師・善導大師の『観無量寿経疏』を精読されました。
そして、ついに心の奥に秘められた真情と一致する偈文に至られたのでした。
善導大師の『観無量寿経疏』にいわく、
「一心に専ら弥陀の名号を念じ行住坐臥に時節の久近を問わず、念々に捨てざるは、是れを正定の業と名づく。彼の佛の願に順ずるが故に。という文を見得てのち、われらがごときの無知の身は偏えにこの文を仰ぎもはやこのことわりをたのみて、念々不捨の称名を修して決定往生の業因にそなうべし。ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、
またあつく弥陀の弘願に順ぜり。「順彼佛願故」の文、深く魂にそみ、心にとどめたるなり。」
『拾遺和語燈録(抄)』塚本善隆著
「浄土往生の信仰に進み、念佛行に進みながらも疑雲の去来に悩んでいた法然の心に、突如として強い光がさしこんで、すべての疑雲ふきとんでしまった。
感激の法然はいよいよ善導の著書を指南として浄土三部経などを深くほりさげ読んだ。心は決した。「偏に善導に依らん」と。」『日本の名著・法然』塚本善隆著
ここにこそ、我が救われる行があること、平凡で愚かな我が身の救われる法があること。
そして、一切の罪過なくしては生きてゆけない、今日の生活で苦悩している私たちに、平等の救いのあることを。
上人は確證してくださったのでした。