会長法話
「非近是遠(ひこんぜおん)」を宗(むね)となす
この言葉は、聖徳太子が勝鬘経(しょうまんぎょう)を注釈された勝鬘経義疏(ぎしょ)の一番の要となるお言葉です。
聖徳太子はまさに天才であられ、仏法が日本に入ってまだ時間も経っていない時に、仏教の奥義に達せられ、法華経(ほっけきょう)・維摩経(ゆいまぎょう)・勝鬘経という三つのお経の注釈書をお書きになられました。その注釈書は中国に送られ、お経のごとく大切にされたそうです。
「非近是遠」の非近とは、自分が生きていくために、一番近いところにあるものばかり眺めてはいけないとのお示しであり、是遠とは、仏様が私たちのためにお働き下さっている、永遠の救いというものにお出合いするようにしなさい。そうでなければ、本当のものではありませんとのお示しです。
ところが私達は身近なところに、心がいくものですし、又、大切なことでもあり、当然なことと言えます。
ドイツの哲学者であり数学者でもあったライブニッツ(一六四六~一七一六)は「現在有体(げんざいうたい)・過未無体(かみむたい)」ということを言っています。過去の過とは過去のことで過去は過ぎ去ってもうない。未とは未来のことで未来はまだ来ていないので体がない。ただあるのは現在有体、つまり現在だけが存在するのだということばです。
なるほど、今・今・今の連続であるわけですが、現在というのは過去のすべてを含んだ現在ですし、まだ来ぬ未来というものは現在をはらんだものです。そのあたりを、お釈迦様は阿含経(あごんぎょう)の中で「過去の世に何をしたかを知りたかったら、今の世で受けるものがそれである。未来にどういう世界に生まれるかを知りたかったら、この世でしていることをご覧なさい」と説いておられます。
遠い未来を見据えて、今を生きなさいと教えて下さっております。実際、三十年先を見てみても、私はこの世にはいないでしょう。その時、私はどうなっているか、どこに生まれ変わっているのか、これは大変大切なことです。このことを「後生(ごしょう)の一大事」と昔より大切にされてきたことです。
南無阿弥陀仏