会長法話
「凡夫ということ」
司馬遼太郎さんが四十五・六歳の頃に書かれた短いエッセイに「悪童たちと凡夫」というのがあります。
司馬さんは浄土宗関連校の上宮中学校に学ばれ、中学二年の時、国語の時間に先生が平家物語にある凡夫についてその意味を尋ねられました。司馬さんは予習してあったので、「凡夫とはつまらぬ人」のことですと答えられました。すると先生は「そう、そのとおりや」とうなづかれました。そしてさらに「ところで凡夫とはだれのことや」と重ねて質問されました。生徒たちはみなとまどいました。司馬さんは心の中で悪さばっかりしているA君のことか、成績が悪くて落第しそうなB君のことかと思ったが、先生に指名されると「わかりません」と答えたそうです。すると先生は「凡夫とは先生もふくめて、つまりわれわれみんなのことやな」と言われたのでみんなびっくりしてしまった。
そして先生は言葉をつづけて「ところで日本の歴史上の人物の中で、だれが最初に凡夫であると悟られたか」訊かれましたがわかりませんでした。先生は「その人が日本の歴史の中で、もっとも偉大な発見をした人や」「それは法然上人と親鸞聖人や」といわれた。
そのときには司馬さんは、自分が凡夫であることを知ることが、なぜそれほどに偉大なことなのかわからなかったそうです。つづいて先生は「今はむりかもしれないが、大人になった時、もう一度今のことを思い出して考え直しなさい、よくわかるから。もし、大人になってもわからなかったら、その人は一生不幸な人や」と言われたそうです。
自身が凡夫であると自覚できる人は、仏さまの光に照らされて、自分をよく見つめている人です。
法然上人のお師匠様である唐の善導大師は弥陀の化身(生まれ変わり)であると人々から賞賛をおくられた尊い聖者でありますが、「自身は罪悪生死の凡夫曠劫よりこのかた流転して出離の縁あることなし」と深く自身の罪悪性をみつめきっておられます。そこから「懺悔」がでてくるのです。 仏様の目からみると私達は罪悪の凡夫であり懺悔せざるをえない存在でありいます。
日常で造った罪障を、いや無始からの罪障を懺悔して、清浄な身となれせていただきましょう。そこから清らかな信心が生まれてまいります。