今月の法話
「渋柿の渋が そのまま甘味かな」
総本山知恩院は、ただ今、秋たけなわ、正にお念佛を申す絶好の時を迎えております。
この時季、全国の浄土宗のお寺では、お十夜という念佛会がつとめられております。
季語にもなっている「お十夜」を代表する秀句の一つに
渋柿を 見上げて通る 十夜かな
という句がありました。
風景そのままを詠んだ句でありますが、ここでこの渋柿を「私自身」のことと受け取れば、一層深みのある佛法味を頂戴できると思うのです。
「私自身」を柿に例えたならば、万人から愛される甘柿の自分であるのか、もしくは見ただけでも人から顔をそむけられる渋柿の自分であるのか、今一度、考えてみてはいかがでしょうか。
浄土宗をお開きになられた法然上人は、九つの時に亡くなられた父上の遺言を守って、十五才の春から四十三才までの二十八ヶ年間を、佛教の母山・比叡山でひたすら佛道修行に精根を傾けられたのでありました。
お山に登られてわずかな年数で、「智慧第一の法然房」の名声を高くされ、「やがては叡山の統領」とまでの将来の出世栄達を約束された法然上人であったのです。
若くして多くの道俗の帰依敬愛を受けられた、正に甘柿そのものの法然上人でありました。
その法然上人が、「戒行において一戒をも保たず、禅定において一つもこれを得ず」と、厳しく自身を深く見つめられ、「十悪愚痴」の自覚を深められて、いつわらず、かざらぬありのままの姿で阿弥陀如来さまの本願のお念佛に救われてゆくお一人となられたのでありました。渋柿の自覚を深めることこそが、
救われてゆく第一の条件となるのであります。
しかし、よくよく考えてみると全く不思議なことがあるのです。
万人から顔をそむかれる渋柿も、皮をむいて軒先に吊りさげておけば、太陽の光に照らされ、寒い風に吹かれ、つめたい夜露に打たれているうちに、渋柿が自然にそのままで、えもいわれぬ甘露の甘柿に変わってゆくのです。
渋柿の 渋がそのまま 甘味かな
今は欠点だらけの不出来な私、例えたならば「渋柿」の私であっても、お念佛を申しつづけてゆくならば、知らず知らずのうちに、「いかり」「はらだち」「ぐち」という自分の力ではどうすることも出来ない煩悩、渋」がいつの日にか必ず消え去って、甘露の如く幸せな現当二世のお念佛によるお陰さまを頂戴出来るのであります。
お念佛こそ大切なことであります。
合掌
滋賀 西方寺
安部隆瑞