今月の法話
先日、小学校5年生の息子が歯医者さんにかかった時のことでございます。
その日の治療が終り、家内が会計を済ませ帰ろうとした時に受付の人(以前から顔見知りの方)が、息子に歯ブラシを何本かくれました。
その時、受付の人は小さな声で「先生(歯医者さん)には内緒よ。」と言って手渡しました。
息子は少々躊躇していましたが、家内が「すみません、ありがとうございます。」と言うのを聞いてその歯ブラシを受け取りました。
帰宅後家内は私に、その受付の人がとても親切で、特別によくしてくれる、とてもよい人のように話しておりました。
私も今度会ったら「お礼を言わなきゃ」ぐらいに話を聞いておりました。
しかし、その時息子が「いい事なのか、悪い事なのか・・・」とひとり言のようにつぶやいたのです。
その言葉を聞いて私も家内も『はっ』として顔を見合わせました。
私たちの考える『良い事』『悪い事』のあいまいさにあらためて気づかされた出来事でございました。
法然上人は『はじめには、わが身のほどを信じ、のちには、仏の願を信ずるなり。』「はじめには、自分自身のつたなさ、いたらなさを信じ、その後には、阿弥陀仏様の御本願の深さを信ずるべきです。」とお示しくださいました。
まさに私たちが、日々の生活の中で忘れてしまっている、とても大切なところではないでしょうか。
「自分自身のつたなさ、いたらなさ」と言うより「他人のいたらなさ」ばかりが目につき、自分の都合で良い悪いを判断し、目にみえる損得ばかりにこだわり、執着して、欲の皮のつっぱった私たちではないでしょうか。
そんな私たちに法然上人のおことばがなんと有難く響くことでありましょう。
阿弥陀仏様は、いたらぬ私たちに『我が名を唱えよ。唱えるものは必ず、残さず救い摂る。』とお誓い下さり、いつもはたらきかけてくださっているのです。
『五会法事讃』というお経さまに、「この世で一人お念仏をお唱えするものが現れたなら、西方極楽浄土に一つの蓮の華が咲き開く。
そして、その人が、一生涯お念仏をお唱え続けたならば、その時咲いたその華を、観音菩薩がいだきかかえてくださってお迎えくださるのです。」と、とかれてございます。
どんな者でも等しく勤めることのできる『南無阿弥陀仏』のお念仏を日々続けることこそ、数ある命の中で、人として命を戴くことができた私たちのとるべき姿ではないでしょうか。
日々の生活におわれている私たちには、『西方極楽浄土で咲く華』は見る事はできません。そんな私たちは「何も咲いてない。」とおもわれるかもしれません。
しかし、西方極楽浄土では、大きな華が咲いているのです。
間違いなく咲き開いているのです。
この世でお唱えさせて頂くお念仏は、その華の根となって私たちをしっかりと支えてくださるのです。
「何も咲かない寒い日は、 下へ下へと根をのばせ やがて大きな華が咲く」
この世では何も咲かないつらい日々かもしれないけれどお念仏の日暮しは、私たちの根となって大きな華を咲かせてくださるのです。
北海道第二 慈教寺
嶋中三雄