会長法話

勝部 正雄 前会長 ほのか15

明治維新前後④

 異邦人の観察の中で「武士階級には信仰はないと見た。これは一面当っている。なぜなら、徳川期に儒教が武士階級に浸透し、儒学的合理主義が彼らの倫理の世俗化を完成したというのが定説だからである。」とあります。

 併せて恣意的に進められた廃佛毀釈は実に悲惨なものでした。

 しかし、庶民の根底にある信仰には傷つくことなく、丁寧に受け継がれていたのでした。また、武士の表向きは儒教の影響を受けながら、内にあってはそれぞれの家系と習慣により、佛教信仰の法灯は連綿として受け継がれ、大切に先祖供養のしきたりが行われていました。

 たとえば、その一例として「長岡藩元家老稲垣家の盆行事の回想を見ると、いかに厳粛かつ生命に満ちた行事であったか。時は明治12~3年のころである。」と記録されています。

 「お盆の数日前から、庭木、生垣の木つくり、庭石を洗い床下まで掃き清め、畳を上げての掃除、天井・桟柱、欄間などお湯で雑巾がけ。

  佛壇は行事の中心である。当主は夜も明けぬうちに、朝日のさし始める光の中で開く蓮の花を採り、佛さまへ供華する。蓮の大葉に野菜が盛られ茄子や胡瓜で作った牛馬が供えられ、盆提灯も灯され準備万端。家族揃って、精霊の帰りを待つのである。

  黄昏には、全員新調の着物を着て、大門のところで二列に並び、こうべを垂れてお念佛、亡き先代さまのお帰りを迎えるのです。門前で焚く迎え火が家毎にあかあかと燃えておりました。やがて、父の魂が白馬に乗って近づいてくるのを覚えました。」

「迎え火が消えると佛前へ戻り、なつかしい客を迎えた喜びに包まれながらぬかずくのです。それから二日間、町はお灯籠で満ち満ちていました。

 お互いに作法を正しく、お精進料理を頂いてご先祖さまと共に楽しみ、家内安穏をご報告させて頂きます。」

「ご精霊が家を去る日、言い難い別れの悲しみが胸に迫り、夜の明けぬうちに川辺へといきます。鳥の啼く声のほか、静けさを破るものはありませんでした。

 山の端に朝日がいよいよ光をますころ、川辺にこうべを垂れて、精霊船をお送りいたします。人々の口からお念佛が称えられ、「さよなら、お精霊さま、また来年も御出でなさいませ。お待ち申しております。」

 家族一同、淨福とでも名づけたい思いで川辺を立ち去りました。」

談・杉本鉞子

 この行事は魂・生命が永久に生き、この世の人を加護してくださっている確信と言えます。何よりも痛切に覚知されているのは、現世を超えて交流しあう霊の世界の存在です。

 それにより、愛別離苦に遭ったとしても、その悲嘆を救ってくださるのです。この霊の実在との交信によって、現世の安穏生活が保たれていたのでした。この行事により、私たちに「同発菩提心・往生安楽国」が実現されていたのです。

 江戸文明の後期には、反佛教思想が流れていましたが、一般庶民の世においては佛教は消えずして大切に踏襲され、佛教習慣なしでは一日も過ごせなかったのでした。

 厳格な儀礼化された称名念佛と勤行の手続きを踏んで、もたらされる他力の救済でありました。それが家庭での日々の勤行は勿論のこと、それ以外の年中の諸行事を通して、佛と庶民が出会える場は常にあったのでした。

 さらに異邦人が驚いたのは葬式でした。江戸文明の葬式は白装束で、金糸で織り上げられた袈裟や緑・紫の衣、高々に掲げられている白の旗。それに色鮮やかな花束など。

「何の知識のない外国人の眼には、葬式の行列は印象深い見ものであった。

 陽気な光景は婚礼の行列のように見えた。」とベーコンは述べています。

 墓場までついていけば、悲しい光景にふれ、「死者に対しての追慕の常は洗練され、死者の住処としてあたたかい配慮が示されている。」とパンペリーは語り、異口同音に高い宗教儀礼と墓地の豪華さ、それに即した追慕の心を感じたと述べています。

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