会長法話

勝部 正雄 前会長 ほのか7

江戸文明①

「現代とはどのような時代・社会か」と問われるとすれば、どのように要約されるでしょうか。

 最近の新聞記事に「近代社会とは、供養のできなくなった世界です。山内明美」「針や釘、獣や草木などの供養塔は各地にある。(略)人の暮らしとともにあって飢饉犠牲になったすべてを供養した。(最近では)人をのみ弔うことで、山や海どころか、人の心も「とり返し」がつかなくなった」(鷲田清一著・折々のことば)とありました。

 平凡ライブラリー・渡辺京二著『逝きし世の面影』には、 

明治維新前後のころに来日された外国人の日記や手記等には、近代社会以前の日本人の暮らしが以下のように記されていました。

〈礼儀と礼節〉「人に出会うたびに丁寧な挨拶を交わす。両手を膝のところまで下ろし、身をかがめ、息を殺したような感じで口上を述べる」「年取った女が二人、頭をひょこひょこ下げながら丁重な挨拶をしている。」「お互いに行儀作法が洗練され、そのような国民は世界のどこにもない。」

〈自由と身分〉「日本を支配している大原則は、個人が自由であるということが明白である。」「個人が共同体を支え、各人がまったく幸福で満足している事実に驚く。」「いかに奇妙であろうと、いかに矛盾と思われよう、紛れもない満足感と幸福感は身誤りようがない。礼節と親切がゆきわたり生活に満足していればこそである。」「下層階級は、世界の何れの国よりも個人的自由を享有し、幕府は彼等の権利を尊重している。」

〈雑多と充溢〉「この国の下層の人は、天が想像し給うた生き生きとした愉快な人々だった。」「さかしらな心構えなどくつがえされた。陽気な笑いの発作がこみあげるばかりで、涙を出さずにはおさまらない。喜ばしくたわいな笑いで、日本は汲めども尽きぬ何かを持っている意外性な国。その新奇なものたるや、それがすべて日常的なことである。」

「その文明は雑多であるが芸術品であり、小細工された完成品、心が溢ちるものばかりである。」

それらは江戸文明の一旦にすぎないのですが、幕末開国期(1858年)に来日したハリスはその日の日記に「厳粛(厳しく厳か)な反省。変化の前兆。あえて問う。日本の真の幸福になるだろうか。」と記しています。

また、その通訳者のヒュースケンは日本の変化に嘆いています。

「今や私がいとおしく覚えはじめている国よ。この進歩はお前のための文明なのか。この国の素朴な習俗と殿にその飾り気のなさを賛美する。国土の豊かさ、満ちている子どもの愉しい快活な声、悲惨なものを見出すことのない世に、おお神よ。今、この幸福な情景が終わりを迎えようとしており、西洋の悪徳を持ち込もうとしているように思われてならない。」

長崎海軍伝習所体調のカッテンディーケは「私は今一度ここに来て、この美しい国を見る幸運にめぐりあいたいものだと(ねが)った。しかし同時に、今後どれほどの多くの災難に出会うかと思えば恐ろしさに耐えなかった。」という思いを抱き、また、プロシャ商船の積荷人リュードルフは「日本人は宿命的第一歩を踏み出した。ちょうど自分の家の礎石を一個抜きとったと同じで、やがて全部の礎石が崩れ落ちることになるであろう。そして日本人はその残骸の下に埋没してしまうであろう」と、明治時代の先行きを憂い、悲惨な転落を予想しています。

バックナンバーを見る