会長法話
江戸文明⑤
江戸文明として見てきた人々の生命共同体的なくらしに、佛教の智慧や慈悲を知らずとも、一部の人たちに生き生きと佛法が息づいている姿を読み取ることが出来ました。
それは、私だけでなく、当時、来日された異邦人たちの姿に、数多く残されています。
そして、そこには、佛教で言う「無財の七施」が自然と実現されていますね。
その一例を紹介しますと、「日本のほほえみはすべての礼儀の基本」「生活のあらゆる場で、それがどんなに耐えがたく悲しい状況であっても、このほほえみは必要なのであった。」「それはお金であがなわれるものではく無償で与えられるもの」と、フランス人画家レガメの紹介、(1つめの和顔施)
水道設計で名を残した英国人のヘンリー・パーマは、「誰の顔にも陽気な性格である幸福感・満足感・そして機嫌のよさがありありと現れていて、絶えず笑いこけている。」(ほほえみを絶やすことなく。2つが眼施)
「日本人の生活に悲しみや惨めさなどが存在しないのに、人々のにこやかさと愛想のいい物腰に魅了された。」と工部大学教授の英国人ディクソン(3つめの言辞施)
スイスの使節団長のアンベールが十か月の見聞をまとめた文中には「幾世紀もの間、質素であると同時に安易な生活の魅力を満喫してきた人々」に感銘を受けずにはいられなかった。
「労働それ自体がもっとも純粋で激しい情熱をかき立てる楽しみであり、職人は自分のつくるものに情熱を傾け、どのくらいの日数を要したかは問題でなく、作品に商品価値を付けた時でもない。作品は満足できる程度に労働した時、労働から開放されるのである。」(熟慮された集中度の高い労働。4つめの身施)
旅の途中のスケッチなのか、アーノルドは「これ以上幸せそうな人々はどこを探しても見つからない。喋り笑いながら通り過ぎる人、車夫は荷物のバランスをとりながら鼻唄を歌いつつ進む。「おはよう」「さよなら」「おやすみなさい」という奇麗な挨拶が、街頭で交わす深いお辞儀。優雅さと明白な善意を示し魅力的だ。この独特で比類するものがない、驚異的で魅惑的で気立てのよい日本を描写しようと努めながら十分ではない。彼らのまっただなかでふた月暮らしてみて、この“日の出る国”ほど、やすらぎに満ち満ちをよみがえらせてくれる国、古風な優雅があふれ和やかで美しい礼儀が守られている国は、ほかにありはしない」と記されている。(心施が5つめ、7つめが捨身行など、他人への心遣いを忘れない人との交わりなど)
それ以外にも、山間の集落で、宿賃も取らず一夜の宿を提供してくれた人々や、明治に入り汽車の旅、三等車中での椅子や座席の譲り合い。災害で被災した村へ救護に入った人に「私より困っている所へ先にお願い」との嘆願など、その光景を眼にされた記録は枚挙にいとまありません。(6つめの「床座施」相手を思いやる親切な言動)
佛教による世間化があるとすれば、法を理解することも大切ですが、それ以上に「他への行為」により会得されてゆくことが真の佛教と言えます。
それらの実践、世間をより善くするでしょうが、それらの願うころは、世間の浄化以上に「我が行い・我が心身が浄化されますように」との「欲望に汚染されている自己を見つめての切実な生き方」なのでした。
何と麗しい人々の生命共同体なのでしょうか。
情報手段の整っていない世においてそのような情報の波及は、どのようになされたのでしょうか。