会長法話

勝部 正雄 前会長 ほのか17

 明治維新前後⑥

 「江戸文明」と呼称した内容は、一体、何であったのか。

 フランスのギメ博物館は、世界有数の東洋美術館です。その創設者のエミール・ギメが1876年(明治九)に来日し三か月の滞在をして、その印象を見聞記として残しています。

 「一つの国を語るのに、二つの方法がある。その国の組織・機能についての正確な情報を提供する統計的な手法と、たとえ数分のものであっても、受けた印象を伝える芸術的な方法である」「ある文明の特質は、それを異文化として経験するものにしか見えてこない」内容であると語り、日本の第一印象は「すべてが魅力にみちている」と記しています。

 その中で彼の感性がとらえたものは音・声・言葉でした。重い荷車を曳く車夫のかけ声・漁師が櫓のひとかきごとに出す断続的な叫び・繁華街に響く陽気で明るい女性たちの笑い声・宿屋の見送り客に贈る「サイナラ」など、このような肉感的な音のひしめく世界として日本を掌握しています。

 さらに、見慣れぬ物音に眠れぬ夜があり、窓を開けてわかったことは、「星がきらめき夜空の下で、山風の吹き下ろしの音と、並みの寄せ来る音、陸と海が二重奏を歌っている。日本の夜には様々な霊や精が呼吸し、人びとはその域に包まれて眠るのだと感じ、ある感銘を覚えずにはおれなかった」と述べています。

 ギメの訪日に同行した画家レガメの眼に焼きついたのは「古い木橋」の曲線が優美であったことで「それ以来、この土地は私の靴にくっついたまま離れなかった」と語り、橋の下を裸の船頭の漕ぐ船が行き交い、水浴する人の水沫に月光が銀色に照り映え、寝入った子どもをおぶった「王妃のような装いの娘」は橋を渡り、母音のよく響く子守歌をやさしい声で歌っていた。この夢のような情景が日本であったことは確かであったが、明治33年に再訪した際、谷戸橋はすでに鉄橋にかけ替えられていました。

 「日本は正確な統計的情報でとらえられない国であり、第一印象によってしか伝えられない。」と述べています。

「このような印象は、異国趣味が生んだ幻想にしかすぎないと受け取ってきたところに、日本近代史読解の盲点と貧しさがあったのだ」と、『逝きし世の面影』の著者である渡辺京二は指摘しており、強く共感するところです。さらに、十九世紀末への進展が、江戸文明の理念と現実の呼吸を無きものとした道を邁進し、科学と工業と啓蒙思想の信奉によってのみで進展したことなどを、オールコックは「蒸気の力や機械の助けによらずに、到達することができる日本の感性度がある」と批判し、近代西欧文明の根本性質を反省している例を見出すことができると指摘していましたが、それは理想の域に終わりました。

ここに至り、改めて「江戸文明」とは何かを明確にするならば、「人間の生存をできうる限り、気持ちのよいものにしようとする合意と、それに基づく工夫によって成り立っていた事実」と言うことになります。

異邦人による文献に語られている過去の現実を集大成されて『逝きし世の面影』は、日本が失ってきたものの意味を問う大冊であり、それを参照としてこの稿を進めてきました。

異邦人の資料は克明な生活者の写実であり、著者の論理は、生活者の写実を現象たらしめている見えない生命の波動・希望・願い・理念を克明に要約されたもので、この大冊に甚深の敬意と感謝を捧げるところです。

そして、その「江戸文明」の基盤には、日本人が会得してきた佛教の生活上の実体験が具現化されていた事実。それらが見事に完成に近い程度に佛法が浸透していることに気づかされ、その部分を補足しなければならないと思ったことが、今回の連載の起点でありました。

わが国に佛教が伝来してから、「人が生存しながら気づく謎」が次々と解かれてきました。それと合間って、より善く生きて往きたいとの誓いや願いが姿や行為や体験を通して、佛教が生活に融合し、庶民の一日の生活が意義深いものと仕上げられてきたことでした。人の暮らしで、実に不思議と感じさせた姿は、佛法の感化によるものでありました。

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