会長法話
世間の佛教化①
明治生まれの両親は、子どものころから食前・食後のことばと念佛を称えて食事を頂いてきました。
祖父は慶應年間の生まれですから、わが家では160年近く食作法が続いていることとなります。これは、特別なことでなく、一般の生活に於ても受け継がれてきたことでした。
また、お盆の精霊祀りも、お彼岸のお墓参りも、お寺参りも同様であります。これらのしきたりは、ほとんど江戸時代に浸透した佛教であったと思います。
江戸文明では、人々は第一に素直で、第二に、より善く生きて往きたいという願いがあり、僧侶から説かれる佛教を心して受けられたのでした。
なぜ、素直であったのか。私を静かに見つめる心があったからです。私とは、どのような者であるのか、常にみつめ、自己を放せなかったことでした。私はわたしでありますが、父母にとっては何ものにも替えることのできない大切な宝だったのです。そのことは、わたしを知ってくださっているすべての人たちにとっても、大切な知り合いであったことでした。
私は、わたしを知るみんなの人の大切なわたしだったのです。それだけに、より善く生きて往く願いは、わたしを知ってくださっているみんなの願いに支えられ、また、私自身も他の人の願いを支えていく人とならねばなりません。その相互の扶助が地域・村落・垣内に平成十年代まで定着していましたが、それ以降は年々に希薄して今に至っています。
個人が孤立し、自他が断絶した世を人は本当に望むでしょうか。
しかし、社会は間違いなくその方向へ進んでいます。相互の扶助や商人を必要としない社会は望ましい生活環境とは言えません。現に・自己自身、個々においてそのように進んでいるのではないでしょうか。
佛教とは知識・理解も含んでいますが、言葉のみで応えていく世界ではありません。言葉は、行動に変換されてこそ世に波及し、働き・機能・行動を通して他の生命と共に交流し、相互扶助の理念でもって存在していく機能態そのものと言えます。
そのような生命の連鎖・働きの連鎖・承認の連鎖・さらに、その人の尊厳の祝福に至る世界。それが佛教であります。そのような「生命共同体」が江戸文明としてあったのでした。
そのような生活での一端が食作法でした。「我ここに食を受く。与えられ足る天地の恵みと、人々の労に謝し奉る。同称十念。我ここに食を終わりて心豊かに力身に満つ。おのが勤めに勤しみて誓ってご恩に報い奉らん。同称十念。」日々、どうして、私たちは健やかな生活が出来ているのでしょうか。
成長と老化を常に繰り返し、止むことなく五臓六腑は働き、新陳代謝を行って生存しているのです。
その新陳代謝は、「食事と便」により進められているのです。その眼に見えない尊い働きにより、天地一切の生命をいただき、今日の一日が成り立っていることを、人々は素直に意識していました。
その生かされている原点が、この食作法にあることを、素直に認識しなければ人とはいえないのではないでしょうか。ところが、平成の世に入った頃から食作法がしなくなってきました。
何が変わったのでしょうか。人そのものが変わったのです。私は自分で生きているのであるという自我意識が頑固となり、すべて有って当たり前という傲慢さが噴き上がり、そのような誤解の認識に気づくことなく今に至っています。
「江戸文明」の素直さに立ち返り、今日の日から、望ましい人の世を創立するために、心を宿した食作法に勤めましょう。