会長法話
明治維新前後⑤
一連の法話を執筆するにあたり、忘れてはならない「江戸文明」について紹介してきました。
なぜ、「江戸文明」に拘っているのかと思われることでしょうが、当時の生活の現実が、異国人が驚いた以上に、現代の日本人がさらに驚かずにはおれない、真実に直結した暮らしであったと思うからであります。
それらの資料のすべては、渡辺京二著の『逝きし世の面影』平凡社ライブラリーに順じてであります。その「第一章・ある文明の幻影」に
「日本近代が古い日本の制度や文物のいわば蛮勇を振った清算の上に建設されたことは、あらためて注意するまでもない陳腐な常識であるだろう。
だが、その清算がひとつのユニークな文明の滅亡を意味したことは、その様々な含意もあわせて十分に自覚されているとはいえまい。十分どころか、われわれはまだ、近代以前の文明はただ変貌しただけで、おなじ日本という文明が時代の装いを替えて今日も続いていると信じているのではなかろうか。
つまりすべては、日本文化という持続する実体の変容の過程にすぎないと、おめでたくも錯覚して来たのではあるまいか。」と記されています。
日本近代が「江戸文明」の滅亡の上に立てられたという事実を鋭く指摘されたのは『日本事物誌』を著したチェンバレンでした。1873年(明治7年)に来日し、1905年(明治44年)に書いた一文に「繰り返し言いたい。古い日本は死んで去ってしまった。亡骸を処理する作法はただ一つ、それを埋葬することである。この埋葬として、ささやかながらその墓碑銘たらんとするものとして『日本事物誌』を著すのである。」と記しています。
英国の商人クロウが1881年(明治14)木曾の山中の村で見た風景・「炎天下の労働を終え、一本の通道で世間話にふけり、夕涼みを楽しんでいるところ、村の中ほどに澄んだ小川が音をたてて流れ、しつらえられた洗い場へ娘たちか木の桶を持って走って行き、夕方の浴槽を満たすのである。子どもたちは、子を背負った女の子も含め・鬼ごっこに余念がない。この村の小さな社会の人つき合いのよさと幸せなようす」に深い感動を覚えた、と記されています。
近代登山家のウェストンは、1925年(大正14)に出版した本に、「昨日の日本がそうであったように、昔のように素朴で絵のように美しい国になることはけっしてあるまい。」この嘆きは景観の喪失にとどまらず、その中で織り成されていた生活の意匠は永遠に滅んだと書かれています。
このように異邦人が予感した古き日本の死は、1868年から1945年の判断の域を超えた過程により、江戸文明の制度や文物や景観の消滅は当然なことであり、さらに全体的に有機的であった生命が、明治政策の「富国強兵と殖産興業と臣民教育」の徹底により、完全に死に至らしめたことは、忘れてはならない肝要な事実であると思います。それらの文明が死に至ったことは、「臣民教育による、人そのものが大改造されてことに因る」ではなかったでしょうか。その大変革によりその文明の底流にあり、基調でもあった佛法にも、大きな影響を与えることと成りました。