会長法話

勝部 正雄 前会長 ほのか9

江戸文明③

 我が国の佛教寺院の建立が、各村々で進められたのは18世紀から19世紀が多く、それにつれて信者や行者や檀家や門徒等も増え、年間法要も行われていくようになりました。

 難解な佛教哲理は会得できなくとも、日々の生活や労働を通して行える佛道修行(簡単な日常勤行やお念佛等)が暮らしと密着し普及していったと思います。世間の佛教化が進み、般若心経やご和讃やご詠歌等が佛壇を中心に称えられたことでしょう。そのような佛教化の流れにより、隣近所や縁者による報恩講や御忌参りも始められ、さらにお遍路さんや伊勢講などの数日の参詣と旅を楽しむ行事が始まったことでした。

 特別な記録などにはさほど残っていませんが、大正年間や昭和十年代の記憶に今も語られています。そのような人々の共同の動き(親睦と余興を込めた行事)が村祭りとなり感謝と報恩の集いを創り、共に喜び合ったことでしょう。

 渡辺京二著の『逝きし世の面影』に書かれている、「異邦人の見聞した日本人の姿」には、くらしの相の底流に流れている生命共同体との理法が(誇張ではなく)佛教の布教と連鎖していることを強感することであります。

 三宝帰依・六波羅蜜・無財の七世・三世の業報・七佛通戒偈・三心等、その理法を知らずとも、日々のくらしで実践している相を上記の書物から見聞させられました。

 三心で言えば最初に「至誠心」が説かれ「至とは真なり、誠とは実なり、うらおもてなき心なり」と説示があります。

 たとえば、オイレンブルク使節団報告書の著者ベルクの一文に「日本人は話し合うときには冗談と笑いが興を添える。生まれてつきそういう気質があるのである」「彼らは日本語を人類のしゃべる自然の言葉だと思い、それ以外の言葉があるということを考えていないらしい」「異邦人は日本語がわからないということがわかってはいない」らしく、人はみんな同じだという共感と連帯があり、すなわち、江戸文明の重要特質の一つに「生活が開放的」であることに気づいています。

 日本の庶民の家屋があけっぴろげであるのに度肝を抜かれています。家の表は開けっ放しであり、朝食・昼寝・行水・家事・手仕事・睡眠にいたるまで目にすることがあり、裏口から裏庭のようすも見えるありさま。まちがって裏口から入っても機嫌よく迎えてくれる。まさに自由に見ることが許されていて、隠す心もない解放感。お互いに信頼し合っているくらしであることに驚いています。「至誠心とは内外共に違わない事」が日本人の生まれつきに持っている性質ではないかと思われたのでした。それだけでなく、施錠もなく、空けひろげて一切の心配もない「真の安心な生活」を江戸文明は実現し実感していたのでした。

 三心の二つめに「深心」が説示されています。自分を深く見つめること、ありのまゝの自分を素直に見つめることです。善なる自己よりも、自己中心に振る舞っている良くない自己を深く見つめている人たちを、異邦人たちは見抜いています。それが、日本人の謙虚・親切・優しい心配り・惜しまない支援などに現れていることでした。その良くない自己が見放されず、私を導いてくださる佛のあることを深く信じている姿にも出会っています。

 三つめに、すべての行為の功績を他に振り向け、さらに自己がより良く生きようと願う心を「回向発願心」と申します。異邦人たちのほとんどが、庶民の生活習慣の中で「回向心」に支えられたことが多く語られています。

 しかし、キリスト教徒である異邦人たちの眼には宗教心の薄い民族と見られていました。1859年江戸を訪れたヴィシェスラフツォフの言葉に「日本人の宗教は、御守り・病魔を遠ざける術・好運不運の日や方位・出かける方角等を信じてる迷信が多く、その上に参詣者は庶民と女性がほとんどで役人・地位のある人・武士等はめったにみることがなかった」と語っています。はたして、そうでしょうか。

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