会長法話

勝部 正雄 前会長 ほのか10

江戸文明④

 十九世紀半ばに来日した欧米人たちの江戸文明に触れた印象は「幸福で気さくな不満のない国民である(ペリーの第二回遠征時の下田でのことば)」との共通した感想でした。

 その四年後、大津波で破壊され再建された下田を訪れたオズボーンは、「いかなる人々がそうでありうるよりも、幸せで煩いから開放されているように見えた」との感想。

 ロシア艦隊に勤務していた英国人のディリーは、函館の印象として「健康と満足は男女・子どもの顔に書いてある」と述べています。

 英国聖公会の主教のジョージ・スミスは1860年に来日。「一世紀前の記述を読み、今日見受けた長崎の光景や住民の習慣・しきたりを比べてみると、いくつかの重要な点で劣化してしまったのか、その推論は避けがたい」と記す一方で、その彼でさえ「西洋の本質的な自由の恵みを享受せず、市民的宗教的自由の理論についてほとんど知らぬとしても、日本人が毎日の生活が時の流れにのって流れてゆくように工夫しているし、現在の官能的な楽しみと煩いのない気楽さの潮に押し流されてゆくことに満足している」と認めざるをえなかったと述べています。

 同年に通商条約締結に来日したオレンブルグ使節団は「どうみても健康で幸福な民族であり、外国人はいなくてもよいのかもしれない」と、その報告に書かれています。

 1863年に来日したスイスの使節団長アンベールは「みんな善良な人たちで親愛の込めた挨拶をし、子どもたちは真珠色の貝を持ってきてくれ、女たちは海の恵みの料理について説明し、その親切と真心は下層階級全体の特徴であり、善意に対する代金を受け取らないのが倫理だった」と感動のことば。さらに、「庶民の特徴として社交好きな本能、上機嫌な素質、当意即妙な才能、陽気な労働と気質がさっぱりとして天真爛漫であること。世は子どもたちには「子ども天国の観」を呈していることであると述べています。

 1871年(明治4年)に来日したオーストリアの長老外交官ヒューブナ―は、「日本を現在まで支配してきた機構について何といわれ・考えられようが、ともかく衆目の一致する点が一つある。すなわち最近に至るまで、人々は幸せで満足していたのである。」と。

 1877年に来日したエドワード、シルヴェスター・モースは現東京大学の動物学教授として就任。進化論の紹介。近代考古学や動物学の基礎を築きましたが、『日本その日その日』の著者としても功績を残しています。その中で「私はこれらの優しい人々を見れば見るほど、気のいい、親切な、よく笑う子どもたちのことを思い出す。子どもの姿とある種の類似点は驚くばかりである」と。同時代に哲学を担当していたケーベルは「ナイーヴなこどもらしい性質・その新鮮で本源的な愛すべき「野生」は私にとっては好ましい性質であったが、(今に)失いつつある」と書かれたのが1918年(大正7年)のことでした。

 1878年(明治11年)外国人が踏み入れることのなかった東北地方を馬で縦断した英国女性のイザベラ・バードは、しばしば民衆の無償の親切に出会い、身の危険や不信感を抱くこともなく安全に縦断できたことを喜び、その傍ら眼にした、手で泥を塗りつけたような家や煉瓦窯のように家から煙が洩れている有様に驚いています。しかし、その住居の前で座っている人の「何とも落ち着いた満足」の姿には、人としての幸せを直感したと記しています。

 これらの光景から、今日の「私たちが忘れている、想像の域を遥かに超えた≪他力の世界≫」を感じさせられることです。

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