会長法話

勝部 正雄 前会長 ほのか3

無佛の私

 世の中の変化について、全体がまとまり善い方向へ向かえばうれしく感じますが、それに反して、全体がまとまらずに対立し競争し邪険となり殺戮へと世が進むと、行ってはならない悪い方向へ向かうことで、見通しのない苦悩へと陥ってしまいます。

 以前で思い出す報道の中、隣国の漁船の海難事故が知らされました。

 了解に対しての対立と防備の話題が上がり、救助よりも領海審判行動となるのではないかと言う懸念がとっさに思い浮かびました。

 ところで、隣国の乗務員数名が行方不明となり、救助要請がだされたところ、即、報道を受けた国が海洋・空路双方による緊急援助へ向かいました。

 このような事態に、双方の国がどのように対応するのかにより人々の受け止め方が大きく変わります。

 その報道を耳にして、救助優先の報道の一瞬で「誠実な心」が与えられたのか、一刻も速く無事であって欲しいと祈る私に気づきました。

 何人も、朗報で善き方向へ進むと信じ、協力・共栄に歓喜する心を持っています。このように、ことぼぐ(寿)いのちへの悦びは生命の核となり、内心深くに蔵(おさめ)られてある私そのものを「(ぶっ)(しょう)」と呼ばれています。

 総本山知恩院の掲示板に掲げられていたある月のご法語に

 「広く五逆極重の罪を捨て給わず、況や十悪の我らをや。」と記されていました。

 それをみた知人が、「世間を広く見渡して、五つの極まりない重い罪を犯した者(母の命を断つ・父の命を断つ・佛弟子の命を断つ・悪意を秘めて佛の身体に傷を負わせる・佛教者の集まりを乱すなどの罪)であっても、見放すこともなく見捨てることもない」

 「極重の罪よりも軽い十悪であっても(殺生・盗む・男女の不正な関わり・嘘・人心を裂く言葉・暴言・悪口・貪る・怒る・無自覚の罪を)見捨てることはないってありがたいね。」と語り合っているのを耳にすることがありました。

 それは、『無量寿経』の最後に「三宝(佛とその教えと信仰している人々)が滅んだ世になったとしても、わずか一度の念佛で往生する」と説かれている箇所に基づいた御文です。

 唐の時代の善導大師はこれを解釈され「末法一万年の後、この経だけは百年間世に留まる。その時に念佛の教えを聞き、一声でも念佛すれば、皆、まさに極楽浄土の国(清浄で訪越の心)へ生きて往くことができる」と述べられておられます。

 ひるがえって今日の世はいかがでしょうか。佛なき世、無佛の人生を過ごしてはいないでしょうか。

 私は「五逆極重の罪」になる縁に誘われながらも、縁ととのわず運よく生かされて来ましたが、十悪であれば無意識のまゝにも犯している私であります。犯すことがあっても気づくことなく控えることもなく、いわば我が力の及ばない十悪と言えます。我が力の及ばない十悪について阿弥陀佛・法然上人は「ただ至誠心・深心・回向発願心の三心を具して、専ら名号を称すべし」と救われ得ない私に、他力の救いの手を差し伸べてくださっています。

「ただ三心を具して」とは「誠実に・謙虚に自己を見つめる心・そして少しでも善き方へと進もうとする心を留め、お念佛を称すこと」とお諭しくださっているのです。

その諭しを日々の生活の中で実践したならば「十悪の我らを捨て給わず」と佛に護られた私となり、「佛性と呼応した人生」を歩む人とならせていただけるのです。

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