会長法話
菩薩の歩み
父母の遺言をいのちの根底に据え、その上に不動の決意を抱かれたであろう勢至の求道には、早くから「菩提心と言う佛心」と「自ずからの業報」と言う二点が立脚点であったのではないでしょうか。
「菩提」とはお釈迦さまのお悟りのことで、仏陀と成られる(成佛)道のことを意味しています。また、お悟りの智慧のことでもあり、仏陀に成られるという動詞の名詞形でもあります。
一般的には、阿羅漢・独覚・佛の三つの菩提を意味していますが、中でも「佛の悟り」が最上でありますから「無上正等菩提・アノクタラサンミャクサンボダイ」と仰信されて伝えられてきました。
「業報」の「業」とは、個々が秘めている「我」から現れる「欲望」のことであり、その欲望に基づき対象を見定め、求めて止まない心的状況・意思であり、それに執われる「執着」が、身体上の行為となって現れ、それを繰り返し 積み上げることを「業」と言います。
その業はその時に受ける感情のみでなく、その力は欲望の制約となって(前の業が存続して)働き積み上げる力となります。すなわち、欲望が意向となり、意向が業となり、業が先行(先へ継続してゆく)力となり、行為が継続され て行くのです。これは、いずれにしましても、おのずから善・悪の双方ともに業の報いが現れてくることとなります。
しかし、現実の世に生きていると、上記の二点を求めることも、それが大きく私の未来・今日・明日へ影響をするとも知らず、全く無知の状況で「今のみの見える現状」にとらわれていることが多いと反省いたします。
よって、相対的世界を唯一の生きる世界と信じ、無知なるままで生きていると言えます。
勢至は、幼くして受けられた「父の遺言」からこの二点を直感され、その二点の有り様を素直に心底からお受けになられ、そこに立ち上がられた少年であったのでした。その少年より青年へ成長なされる足取り(下記の事項を拝読して)は、「勢至のお言葉通りの菩薩の歩み」と確信させられます。
1147年11月8日、勢至15歳で華髪を剃り大乗戒を受け給いにけり。 1148年春 勢至16歳 ある時「すでに出家の本意を遂げ侍りぬ。今におきては、跡を林藪に逃れんと思う」由、師範の阿闍梨諌め給いければ、 「我 閑居を願うことは、永く名利の望みを止めて、静かに佛法を修学せんためなり。この仰せ真にしかなり」とて、 生来十六歳の春、初めて本書を開く。三カ年を経て、三大部を亘り給いぬ。 と『法然上人行状絵図』に記されています。
私たち、跡につづく一仰信者として、この「勢至のお言葉通りの菩薩の歩み」から眼をそらし、足を踏み外していないでしょうか。自らが、自らに問わずして佛道は歩めません。
合掌