会長法話
『もの言わなくなった人を大切にする!』
昔から「もの言わなくなった人を大切にしなさい」と言われてきました。
もの言わなくなった人とは誰のことでしょう?そうです。亡くなられた人のことです。
現代社会は、亡くなられた人を大切にしない社会になりつつあります。あの東日本大震災で絆の大切さが叫ばれながら、東京では孤独死する人が年間七千人をこえ、直葬(じきそう)が三割から五割にのぼったと言われています。
直葬とは葬儀もしてもらえず、すぐに斎場に運ばれ、お骨となり、それで終わりでお骨を引き取りに来ない人もいると聞きます。まことに寂しいかぎりです。
一方ではペットが大切にされ、立派なペット葬がされているようです。何か複雑な思いがいたします。
先日八十過ぎのご夫婦のお家にお参りさせていただきました。ご主人は「元気な頃は私もご先祖が残して下さった畑を大切にしてきましたが体調を崩してからは畑に行けないのです。しかし息子二人が休日に草刈に帰ってくれ、仏壇にも詣ってくれます。」
よくできた息子さんですねと私が申しますと、
「当たり前のことです。ご先祖様のことを思い大切にしない家はうまく行きませんからね」と仰いました。
ご存知のように徳川家康公は、父君は松平広忠、母君は水野忠政の娘於大の方のもとに生れ、幼名を竹千代君と呼ばれていました。竹千代君は生まれながら家庭的に不幸をうける運命にあり、三歳の乳呑児の時に実母於大の方と生き別れとなり、六歳の時には人質として今川氏の居城駿府に送られ、途中織田氏の人質として奮取され、桶狭間の戦いで今川義元が死ぬまでの十二年間人質としての生活を余儀なくされました。
成長された徳川家康公は、幼少の頃、生き別れとなった母君に生涯大切に孝養をつくされました。孝養をつくしてくれる家康公に於大の方は何かお返しすることはないかと考えた時、徳川家(家康の以前は松平姓)十五代前までの先祖がわかった。それで於大の方はその先祖の方々の追善回向することを日課とされました。そのことが徳川家十五代つづいたことにつながったともいえます。それに対し、武田信玄公は戦の神様と呼ばれた軍士でありますが、二代勝頼の時に武田家は滅亡しています。 それは信玄公が二十一歳の時に父信寅を追放して殺してしまった。そのことが武田家滅亡を早めたと、徳川家康公はおっしゃったそうです。
ちなみに、家康公は浄土宗を大切にされ、生涯に二度五重相伝をうけられ陣中においてもお念仏申すことを絶やさない敬虔な念仏者でした。
追善回向が真心からていねいになされているお家は長い目でみると必ず栄え、これを実行しないお家はじりじり衰運に傾くのは理の当然であります。
「根を養えば樹はおのずから育つ」であります。
合掌 南無阿弥陀仏