会長法話

勝部 正雄 会長 第一回

昏迷の世にあって

 佛暦2566(令和5年)、浄土宗開宗850年の記念の年を迎えます。

 平安時代末・承安5年に、法然上人が新しく浄土宗を開かれました。その目的、意義を基盤として日々の実践と心得等が明らかに示されています。

 正に、すべての人類が阿弥陀佛の本願に直結する行により、救済される教えを明解にされました。それだけでなく、開宗されてからの850年間、多くの人々によりその時代に合った立教開宗の本義を読み取られ、その教えが数多く残されてきました。

 その説示を受け、現代に生きる私たちが何を学び、どのように生きていけばよいのかを記していきたいと思います。

①法眼観察

 まず留意していかなければならないことは、佛教に対する人々の声ではないでしょうか。

 一般的に聞こえてくる批判や質問に応えること。それが先決だと思います。

 そこでは、現状の流れの中に危機を感じ、その危機を掌握していますが、それは危機ではないところに危機を見抜いていることに驚異します。

 法然上人の父・漆間時国は美作の国(岡山県)の押領使(おうりょうし)でした。ところが、その近在の荘園・稲岡荘の預所の明石定明の夜襲により臨終に至ったのでした。

 死を前にした時国公は、九歳のわが子・勢至丸に「汝さらに会稽の耻(はじ)をおもひ、敵人をうらむことなかれ。もし遺恨をむすばば、そのあだ世々につきがたかるべし。しかしはやく俗をのがれ、我菩提(わがぼだい)をとぶらひ、みずからが解脱を求んには」と諭されています。

 夜襲に会うことは危機そのものですが、時国公は、その現状への危機対応ではなく、見えない世界の恩讐の彼方の危機そのものを感じていたのでした。

 そこでは、単なる現実とは全く次元を異にする、「恨みなき世界」を感知されていたのです。

 たとえ「法眼観察・覚了法性」の文言を知らずとも、いまわの時に直感されたことに学ばねばなりません。

 敵にこそ、仇討ちと言う無宗教の現実対応があれども、それを包み込む発想こそ、極めて重要ではないでしょうか。

 世で教化している宗派は、政治・経済・教育・人権等の動向にどのように応えているのでしょうか。その発想である絶対的・普遍性の気づきこそが必要ではないでしょうか。

 このような事象について、ややもすると現実の動向に意思表示することなく、一見、世間に迎合するような姿がわが国の宗教界に多く見てきました。それでは無言のままに現実承認となり、思いもしない明治時代以降からの戦争連鎖と言う対応に、おちいりかねない状況となるのではないでしょうか。

 その国家的な史実に応え得る内容が、平安時代末期、一地方で起きた一武士・漆間時国の解決に見ることができます。時には僧侶としての教化対応以上に、一般庶民の声が的を射ています。恥じ入るばかり、襟を正さねばならないことであります。

 それら不特定な方々からの声に広く深く学ばなければなりません。多くの心に触れ「覚了法性」へ導かれます。

②弥陀の本願の叡知

 「諸業は機に非ずして時を失へり、念佛往生は機に当たりて時を得たり」「浄土の教、時機を叩きて而も行運に当れり。念佛の行、水月を感じて而も昇降を得たり」と上人の言葉。

 「時代・世相」と「人の機根」を大前提とし、その後に、浄土教を見出されたのでした。

よって「時と機」、すなわち世相と人の業(生き方)を基点とされ、その双方に合う御教えを探求されたのでした。

 どのように尊い御教えであったとしても、その以前に、その当時の「世相を抜きにしては生きて行けない人柄」の掌握が前提となっています。言うまでもなく末法の五濁悪世の時において、下品下生でしか生きていけない人々に焦点を定め、求道されたのでした。

そして、その究極が「阿弥陀佛の本願」であり、「選擇である称名念佛行」であったのです。

 これを見出されたことは、人類すべての普遍的な救済の偉業であり、そのことは「智慧第一の聖者」であるゆえに為されたのでした。それと併せ、そのことが上人自らの主体的な「愚鈍の身の自覚」と「無量の宝」そのものへの悟りであったと拝受致します。ここに、「宗を開かねばならない」弥陀の本願の叡知が働いたのでした。

 そのことは今を去ること850年前の現代に成されたことでありますが、それと同じく、850年経過した今日の現代の私たちをも救済されることを確信いたします。

③現代人とその世相

 そこで、「現代人と世相」はどのような状態であるのでしょうか。

 まず、最近の人と世相を見ますと、未来への展望は見えず、それ以上に眼前の実利を求め、また理念や哲理も持たずに巨額の富を流用しながら小手先の対応に走り、どのような社会を形成しようとしているのか、無性格・無人格の世ではないでしょうか。

 その一方では強固な自我中心に執着し、その底流には「戦争体験の語り」に涙した共感の心は消えつつあり、論議なき改憲勢力のかけ声に誘因されながら「専守防衛から敵基地攻撃能力の保有」へと転じかねない動きが見えてきました。

 それと併せて、憲法の空洞化・立法府の無力化をあえて進め、1945年以降、積み上げてきた平和・平等体制の終焉を感じさせています。軍備・核兵器・国家的対立への動きを見直す勢いも、年々に低下し、明治維新より終戦までの間、牽引した「論議なき実践力」に期待する胎動が感じられた今秋となったように見受けます。

 これら、今日の世の様相はそこに含まれている私自身の業でもあり、他人事でなく深く考えさせられることです。

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