会長法話

岩波 昭賢 前会長 第1話

お念仏の声を広げましょう。

お念仏は先ず、声に出して“南無阿弥陀仏”とおとなえすることに意義がございます。私どもが暗い夜道や危険な場所などに至りますと自然に大声を出すことがあるようにまた赤児が乳を求め、何か要求する時にはまっ赤になって鳴き声をたてるように声を出すということは極めて自然な行為であるのでございます。
それも大声で叫ぶほど効果は大きいのでございます。夜の小道をこわくて大聲を出して小走りで通りすぎた経験は誰れしも持っていることです。
どんな小さな明かりでも眼にした時の安堵感は忘れられません。

さて、私ども人の生命をいただいて此の世にでてまいりまして既に何十年中には八十年、九十年と。 最近は平均年齢が世界一の長寿国日本にまで成長し百才以上の方が四万人もおられるとか、ちょっと信じられないようなことが次々と聞かされるこの頃でございます。
然し、私どもどんなに長生きいたしましても此の世通しはできませんね。どうしても一度は死を迎えなければなりませんね。
考えてみれば、ほんのちょっと向こうがのびただけなんです。“光陰は矢”なんです。これは今も昔も変りないのでございます。

それでは、日本中全体が長生きかと言いますと、そうとばかりは言えません。 二十代、三十代の若者が事故や病気で次々と亡くなっていくのも現実の姿でございます。
私の寺は長野県のほぼ中央農村地帯で辰野という小さな町にありますが、先代の頃からお念仏の会が盛んに行われておりまして、皆さまよくお経を読んだり、お念仏をとなえられます。
特に「お念仏は大きな声でとなえましょう」が習慣になっていて、お念仏になると大きな声が本堂内に谺してそれはそれはにぎやかなものであります。つまり大きな声でお念仏する習慣が身についているというのでしょうか。 私はこれまで指導してこられた先達の住職の偉大さに驚いております。
大念は大仏を生むと言われますが高声のお念仏はまことに気持のよいものでございます。

さて暗夜の大声と初めに申し上げましたが、実は私ども人生の旅路は余り明々したものではなさそうであります。 どちらかと言うと暗い生活條件の中で人生の旅路を続けておるのではないのでしょうか。
しょっちゅうつまずいてはころびそうになり、暗やみで物につき当りそうになったり、いつも危険極まりない日暮らしを続けているのではないのでしょうか。ほんとうは何かに縋っていきたい願いをいだいて生活しているのではないでしょうか。
ちょっと耳を澄ませてお念仏の方へ向きを変えてみていただきたいのでございます。
如来様、阿弥陀さまのお声がきこえてこないでしょうか。
“我が名を呼べ きっと救うぞよ 大きな声でよべ 必ず助けるぞよ”
私には如来様のお慈悲が伝わってくるように思えてならないのです。
助けたまえ南無阿弥陀仏助けたまえ南無阿弥陀仏。
仏さまの本題は南無阿弥陀仏ととなえる人々をもれなくお浄土に救いとることが目的であるのでございますから、仏さまのお約束には我々人間の約束と違って間ちがえは無いのですからただ助けたまえ南無阿弥陀仏だけでよいのです。
阿弥陀み親様は私共のお称えする声をたよりにおいで下さるのでございます。
高声のお念仏は一層如来さまと私どもの距離を近づけて下さる最高の手段なのです。

南無阿弥陀仏  合掌

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