会長法話

勝部 正雄 会長 第4話

この別れさへ またいかにせん その悲嘆から 開かれた浄土門

 保延七年(1141年)、法然上人の少年のころ、九歳のお誕生日をお迎えになられる三週間前の三月十九日、父上・漆間時国公のご逝去に遭われました。時国公の法号は「菩提院殿源誉時国西光大居士」と申されました。その御臨終のお姿は「端座して西に向かい、合掌して佛を念じ、眠るがごとくして息絶えるにけり」と遺されています。

 人はさまざまな縁によりこの世に生まれさせていただき、その誕生の縁と環境を基点として養育・成長されることです。そして、その基点に支えられ、一分のまちがいもなく恵まれて生育され成長をとげるものです。

 しかし、この世は諸行無常(すべての存在は常ではなく変化し続けている)であるがゆえに、思いもよらないことに遭遇するものです。それゆえに無事に整っている環境の時こそ、喜びを感得しひとときの大調和に歓喜を忘れてはなりません。

 勢至は父上と別れ、その後、母の弟に当たる奈義山(なぎさん)の菩提寺・観覚得業の室に入られました。

 この寺の開基は、奈良時代の修験道の祖・役小角(えんのおずぬ)で、いつの頃かは存じませんが、七堂三十六坊の伽藍が整い多くの学生が逗留し、美作第一の学問・修行道場であって、由緒ある菩提山でありました。

 境内には高さ30mほどの公孫樹(国指定の天然記念物)があり、誕生寺の親木と伺ったことがあり、勢至にとっては縁の深い環境であったと思われます。

 そこで五ヵ年の生活と修学を修められ、その優秀な才能は言葉であらわせないほどの資質である、と観学得業は感じられたのです。

 「学問の性、流るる水よりも速やかにして、一を聞いて十を悟る。聞くところのこと憶持(おくじ)して、更に忘るること無し」と。

 並みの器量ではないことに驚きと期待を持たれたのでした。そして、「徒人(ただびと)には非(あら)ず覚えければ、徒(いたずら)に辺鄙(へんぴ)の塵(ちり)に混(こん)ぜんことを惜しみて、早く台嶺(たいれい)の雲に送らんことをぞ支度(したく)しける」と。

 一日も早く比叡山へ登らせ本格的な学問をされようと願われましたし、勢至もまた真理を極めたい願いに至っておられたことでした。

 ところが、母・秦氏の承諾を得なければなりません。母にして見ればよく分かる話と申すものの、形見として遺してくださったわが子と別れなければならない悲嘆は、越えることのできない「愛別離苦(あいべつりく)」の峠であったのです。その母の姿を仰ぎながら、心を込めて・・・

 「一旦の離別(りべつ)を悲しみ、永日(えいじつ)の悲嘆を残し給うことなかれ」と再三慰め(なぐさめ)申す。

 そこで勢至は、「いっときの離別を悲しみ、永遠の嘆きをお残しになりませんように」と再三、慰め申し上げられました。その言葉に、母は承諾なされたのですが・・・

 袖にあまるかなしみの涙、小児の黒髪をうるをす。有為のならいしのびがたく、浮世のわかれ惑いやすくて、かくぞ思ひつゞけゝる。

 形見とて はかなき親の留めてし この別れさへ またいかにせん

合掌

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