会長法話
月に導かれ 月に達すること
勢至は阿闍梨皇円の勧めをお受けになり、
―「この仰せ真(まこと)にしかなり」とて、生年十六歳の春、初めて本書を開く。三箇年を経て、三大部を亘(わた)り給いぬ。
十六歳の春、勢至は「ご指示いただいたことは、≪本当にその通り」・私が真理を極めようと望んでいる通りです」と受けられ、初めて天台宗の根本経典・六十巻をひもとかれたのでした。
その三年間の修学は、前号でお伝えいたしました源信和尚・恵心僧都の「世を渡る僧」ではなく「真理を極める僧」としてのお姿であり求道であられたと拝察いたします。
そのことは、次に記されている勢至の評判から知ることができます。 「恵解(えげ)天然にして、秀逸(しゅういつ)の聞こえ有り」と。勢至丸の智恵と理解力は生まれつき秘めておられたもので、秀才であり逸才の人であると多くの学僧たちの驚きであったようです。
また、「四教五時(しきょうごじ)の廃立(はいりゅう)鏡をかけ、三観一心の妙理、玉を磨く」
釈尊がご生涯にわたり説かれた四つの教え、さらには解かれた時期を五つに分けられた内容など、鏡に写し出されるように明らかに理解され、すぐさまにとらわれのない境地に入られ、この世は縁により現象させられている仮の存在であることも会得されたことでしょう。空も仮も双方を見通された絶対の境地に入られ、玉が磨かれて光を放すようによく通じられた」のでした。
「所立の義勢、ほとんどの師の教えに超えたり」と。六十巻を学び修められた内容・見解は、師匠の見解を超えるほどのものでした。この修学の御事については、岸信広猊下が「心眼得開・了々分明(観無量寿経・第八観の一句)」をお説きくださったご法話の、次のご道詠が思い起こされます。
かくばかり奇(く)しき世界のあるものと心のまなこひらくよろこび
「心の眼を開くことができるならば、≪了々として分明に」尊き不可思議な御佛の世界を仰ぐことができる」
かくばかり奇(く)しき世界のあるものと心のまなこひらくよろこび
「心の眼を開くことができるならば、≪了々として分明に」尊き不可思議な御佛の世界を仰ぐことができる」
若き法然上人は六十巻の理解に留まらず、より深い会得の境地に入られたことではないでしょうか。そのように仰がせていただくばかりです。
阿闍梨はいよいよ感嘆され、「学道を勤め大業を遂げて、円宗の棟梁となり給えと、よりよく拵(こしら)え申されけれども、更に承諾の詞(ことば)なし」と。
阿闍梨皇円は感嘆され「さらに修学をされ学位を得て、天台宗の最高位の指導者となりなさい」と何度もお勧めになられましたが、勢至は全く承諾されなかったのでした。師の皇円から天台宗の座主となりなさい、と勧められたことは最高の出世であります。ところが、勢至にとっては、望む道ではなかったのでした。
師にすれば得がたい弟子であり、その秀才の青年を放すまいと願われたのでした。ところが、それを承知されなかったということは、その道に生きるのではなく、また、単なる学問のための学問研究に進むことでもなかったのです。
六十巻、会得された喜びを得たと言えども、万人すべてが可能でありましょうか。勢至は、唯一、「すべてのいのちを救う道」を求めて止まなかったのでした。
よって、比叡山の競い合う教学から去り、自らの使命・課題を一途に求められたのでした。 教学とは、何でしょうか。「月に達することと、月の在りかを示す指」とは違います。 仏教は、月をめざし、月に導かれて月に達することです。しかし、それは簡単には行きません。そこで、月への方向を示す道標・月を示す指が主流となって来たのでした。そのときに、指を月ではないかと見誤ることがこの世にはありがちですが、十八歳の勢至はそのような単なる教学・学問の理解の世界ではなく、真理への会得(行法)を求道されていたのでした。
「たちまちに師席を辞して、久安六年九月十二日、生年十八歳にして、西塔黒谷の慈眼房叡空の廬(いおり)に至りぬ」と。師の勧めを耳にされ、すぐさまに「師席を辞した」とは、よほどの覚悟であったと想像致します。
世間では、師匠が弟子を破門させたり辞席を命じたりすりことがありますが、弟子が師匠の勧めを辞退することは考えられないことです。
しかし、また師の阿闍梨皇円も、勢至はそのように秀でた才能であり、それも当然と思われたのでしょう。
はじめて勢至が、師とお出会いされた時、阿闍梨皇円の申された一言、「昨夜、満月が私の部屋に入るのを夢に見た。それは、勢至が来る前兆であったのだ」とあるように、すでに、そのような器であることをご承知されたのでしょう。
合掌