会長法話
三学非器
『佛説無量寿経』巻上に「もろもろの劇難ともろもろの閑・不閑とを済(すく)いて、真実の際を分別し顕示す(略)群生を荷負して重担となす」とあります。
劇難とは激しい困難。閑・不閑とは、暇な人と多忙な人の双方を意味し、群生とは命ある者、苦悩をもって生きている者等で、すべての者を背負って歩み続けようという願心を表しています。(人間界の発想とは思えない)この決意を「菩提心」と申します。
法然上人は、廿歳代の半ばを過ぎたころ、黒谷「報恩蔵」へ再び籠られます。この経典の一段を拝読するたびに、元祖上人の心と思えてなりません。
振り返りますと、清凉寺七箇日間参籠の目的は「これすなわち和国の霊場厳重の本尊にましませば、十方の浄土にきらわるる罪重の衆生、三世の諸佛にすてらるる生死の凡夫、このたび流転の本源をつくし、輪廻の迷倒をたたんことを起請のためなり」(『拾遺古徳伝絵』)とありますように、済度衆生を一途に求められてのことでした。
そして、その後の碩学訪問においても、自己自身の解脱と併せて、無知無学の民衆の声をも含んでの救いを求めたのですが、それを見出せなかったのでした。
よって、会得できなかった課題を背負っての報恩蔵への参籠でした。
ここまでのご生涯で、見落としてはならないのは求道の基本となる「上人の学びの姿」です。
それについて藤本淨彦先生の著書『法然における宗教体験』で・・・
「宗教が宗教としてその特意性を発揮するのは、その具体的宗教が淵源(えんげん)とする、教義を主体的に実践するというレベルを保持しているからである。
それゆえに、“語られ・記述されたもの”は常に“教義の主体的経験”の後に出現することになる。
日常的または歴史や文化の理解のための“ことば”とはレベルを異にして、宗教的“ことば”が孕む特質に注目しなければならない。
それは、「その具体的宗教が淵源(えんげん)とする教義を主体的に実践するというレベル」、または、教義の主体的実践としての“生き方”において発せられる“ことば”であるからである。」と示されています。
「離言真如」と言われるように、真如は言葉で説くことはできません。
「極楽はあるかないか」との問いそのものが、この世の存在しか実感していない範疇で問うているだけに、そこには極楽の感得は有り得ません。
真如の言葉は、信仰による実体験で開かれた世界であり超越的表現を含んでいます。
上人は、少年のころから「教義を主体的に実践する」こと併せて「そこで出現してくる主体的経験を願解する」ことを基本とされ、そこから遊離することなく佛道を求めてこられたのでした。
上人が隠遁を志した時の心中を、浄土宗第二祖聖光房弁長上人(1162~1238)のお言葉で遺されています。(『上人行状絵図・巻六』)
「出離の心ざしいたりてふかかりしあいだ、もろもろの教法を信じて、もろもろの行法を修す」簡潔に記されていますが、熾烈にして真摯に徹し、聖道門を修め学ばれたのでした。その法に対峙されたお姿は、菩薩そのものでした。
その姿こそ、上人の跡を慕う私たち、教徒の目指さねばならない生き方でしょう。
それが、『一切経(大蔵経)』拝読の経緯でした。
膨大な佛教教理を捉えるのは容易ではありませんが、それを拝読された結果、上人は「およそ佛教おほしといへども、詮ずるところ戒定慧の三学をば過ぎず」と明解されたのでした。
まず、戒律を守り、心を佛心に定め、真理を会得することで解脱・成仏が可能となります。
聖光房弁長上人が三十六歳で「吉水の禅室に参」じられた時、上人は六十五歳でした。
教えを乞うにつれて、上人のお姿は「文義広博にして、智解深遠なり。崑崙(こんろん)の頂きを仰ぐが如し。蓬瀛(蓬莱と瀛州)の底を望むに似たり」であったと記されています。
それは、二祖上人の偽りない実感だったことでしょう。
その修学を備えながら、上人は、「この身は戒行において一戒をもたもたず。禅定においても一もこれを得ず。智慧においても、断惑証果の正智をえず。」と述べておられます。
私は、三学に至れない、と断言されているのです。
戒について言えば、最低五つの戒律(生きものを殺さない・盗みをしない・邪まな関りをしない・嘘をつかない・酒をはじめとして嗜好物に執らわれない)を守らなければなりません。
それと同等に、定も慧も、守ることが定められています。
それらは、連綿として伝えられてきた修行であったのですが、厳密に守ることが果たしてできるでしょうか。
上人は、真理・諸佛諸菩薩の前において、そのことをごまかすことはできなかったのでした。
「三学非器の身」であることを深く見つめ、「わが心に相応する法門ありや。わが身にたへたる修行やある。とよろずの智者に求め、諸の学者に訪(とぶら)いしに、教うるに人もなく示すに倫(ともがら)もなし。」
現実を見定め、現実に立脚された上人は、衆生の根源からの声を聞き、自ら(三学非器・悪人)の救われる道を求められたのでした。
仏教伝来の長きにわたり、三学に自己を合わせて修行はなされて来たのですが、「かなしきかな、かなしきかな。いかがせん、いかがせん。ここに我等ごときはすでに戒定慧の三学の器にあらず。この三学のほかに我心に相応する法門ありや、我身に堪たる修行やある。」
と上人は大転換され、三学非器に合う教理を求め、その後、進まれることとなりました。
ここにおいて法然上人は、「教義を主体的に実践する道」を開示してくださったのです。
この道こそ、浄土教の根源と言える姿であり、浄土宗徒の姿としなければなりません。