会長法話

勝部 正雄 前会長 第19話

第三の「信」

法然上人の「三学非器のご自覚」とは、どのような内容だったのでしょうか。
そのご自覚に至るまでは、修行や経典による会得が常であられたと思います。
当然ながら師の導きもあったことですが、
「学問ははじめて見たつるは、きわめて大事なり」と示されているように、多くの経典から自分にかなった教えを見つけ出し、それによって主体的な態度で学ばれたのでした。この厳格な学びは、少年のころからの姿であられたと仰ぐばかりです。
その過程で、膨大な量の「一切経」を数遍にわたり熟読されています。
そして、「佛教とは三学である」と見極められました。三学とは「戒・定・慧」でした。
戒は、教えにより説かれている守らなければならない規律や、心得なければならない言動を厳守することです。
また、日常生活において煩い悩みを持つことなく、心落ち着いた生活に努め、心の安定を実現することである、と「定」が説かれています。
さらに、覚りを極める智慧が姿・形をもって現れ、そこは慈悲行として具現化される修行を「慧」と示されています。
即ち「戒を守り、安定した心身を保ち、覚りを極める智慧を持ち、それが整えば、自ずから佛をまみえる境涯になる」と覚られました。
その趣旨は、佛教全体に遍在しており、同じく各教典に生き生きと示されていることを見出されたのです。
わが国に伝来された佛教では悟性の能力を高めることが伝統的に求められて来ました。
そこでは学ぶ力が重視され、その能力による比較・検討、論理的思考・判断が高く評価されてきました。
その能力を高め、それにより真理は探求できているという自信に至る道であったと言えます。
佛教とは、悟性の能力に頼って成り立つ世界と思われて来たのでした。
この三学の基礎である戒が整わなければ(尸羅清浄ならざれば)佛にまみえることができません。上人はそのことを深く了解されたのでした。
佛教とは「三学に努め拝受すること」である、これを第一の「信」と致します。
けれども、佛智の前の自己肯定を静かに見極め深く省察されたところ、その会得とは全く正反対の自己であることを認識されたのでした。
上人は、たちまちにして悟性的な態度からは離れ、戒において一戒をも保つことができず、定において一瞬なりとも落ち着きのないありさま。到底、佛にまみえることのできない我であることを深くご自覚されたのでした。
このように、佛智に照らされて自己が自己に問う、その厳格で超人的な内省は自己の放下となりました。そして、自分の地位や名誉に執着する心を捨て、絶対的な佛法の前にぬかずき、世に見受ける慢心を底までつらぬき通す自覚を持って、自己否定に至られたのでした。
この自己否定を第二の「信」と致します。
西川知雄著『法然浄土教の哲学的解明』に、「悟性は自己肯定的な認識作用であり、理性は自己否定的な認識作用である。つまり悟性も理性も、認識における自己に対する自己の対決の在り方である。(略)一体、自己が自己に対決することは、(略)自己を自覚するとしても(略)それは自己を救うことにもならないし、自己が救われることにもならない。(略)救われないままに放置されていなければならない。(略)「救い」は自己が自己を救うという自己の内なる機能では不可能である。(略)
従って、自己の内なる機能ではなく、自己の実在を包越することころの、自己の外なる機能によらなければならない。(略)
自己の外なる位置へと移転する-往生する-という仕方で救われるのである。自己はそのままの位置で変容するのではなく、彼の岸へと往生することによってはじめて実存的に救われるのである。」と説かれているように、上人の求道はそこに至られたのでした。
佛道は三学であると言う認識と、三学非器の自己であると言う認識は、どちらも自己の内部における自覚であり、理性的ではありますが、人としての情意的納得・頷けるところに至っていない救いなき状態と言えます。
それに対して上人は、理性の働きを停止し、自己自身を否定するところにこそ人智を超越した佛智は開かれることを、すでに予見されいたのでは・・・と思うところです。
そして、「この三学の外に、我心に相応する法門ありや、我身に堪たる修行やあると」、我心・我身に応じた教えと行を求められたのでした。
それは、自己が三学に学び修行していく道ではなく、その反対である、自己が修行できる教えを求められたのでした。
この自己放下ののちに絶対的な佛意に帰依するところに第三の「信」がひらかれたのでした。このことは、伝統的に受け継がれてきた佛教の大転換であったと言えるでしょう。
同時に、人類すべての人々の切実な願いを求道されるに至られました。
嘆き嘆き経典に入り、悲しみ悲しみて佛の智慧を求められた上人は、ほのかに佛の世界からの大慈大悲の「信」のあることを感得されたのでした。
それは、自己の内なる世界ではなく、外なる彼岸からの歓請となり、自己の営みを超えた世界からの働きかけを受ける「摂取の信」に会われたのです。
長い苦悩の歳月を超え、自力の修行から自己放下を経て、他力の門が開かれたのです。

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