会長法話
与えられたいのちを、どのように活かすのか
時国公の遺言には、次の四つの要点が秘められているのではないでしょうか。
その一つは、現実社会への洞察です。世の中はいつの世も変わりなく強靭な自我により、そこから起こる無限な欲望と利益へ貪欲な執着・そして利益を求めて止まない競争と闘争・時には怨みとなり怒りとなり、ついに殺戮にまで至る世であります。
過去においても現在の世においてもそして未来の様相も、その流れの中にあって流れを知らず、これが当然な世と承知している無自覚的な状態を「流浪三界(るろうさんがい)」と申します
時国公は、流浪三界の私であると深く自覚され、迷い続けている自己(現実)の愚かさに気づかされていた武士でありました。「勢至丸よ、この道から厭(いと)い離れよ」と申されたのでした。これを厭離穢土(えんりえど)と申します。
そして二つめは、この世へすがた形を以て現れてくる事象には、すべてそれが起こり得る原因があり、その上に原因に沿った縁が集まり、それらの集合として結果が起こる道理を見通されていたのでした。これを「因縁果の道理」と申します。(すべての現象・生存には無意識なまゝの言動があり、その動きに応じた条件が集まり、その結果が興り得る法則性に従って事象となるのです。)
三つめは、業法(生きたまゝの結果が一分の狂いもなく今に現れ現象し、今と未来を形成する)の理法の枠内で実在しているいのちを見つめておられたのでした。
その理法には即時に現れる業報と、しばらくの時間や時代が経過して現れて来る報いと、さらには次・次々の世のいのちの上に受ける報いの三時があり、それを会得されていたのでした。
よって、今日の対応にのみ執着している人々とは異なり、そこから離れた理念の世界を確かなものとして秘めておられた武士だったのです。
四つめには、佛智により諦観された高次元の真理に遇わせていただいた生命は、虚しく過ごすことはない。真に生かされ活きて往く生命に高められることを憧れ承知されていたのです。それは、み佛の御力によりまちがいなく「厭離穢土・欣求浄土(えんりえど・ごんぐじょうど)」の道へ導かれ生きて往くことができる、と確信されていたのでした。これは同じく、遇うことのできない法に会うことが出来たというを慶びと、これを離れては生きて往けないことを承知しておられたのでした。これを難値得遇(なんちとくぐう)と申します。
時国公は、この四つのそれら信じ仰ぎ、わが子の未来へ託されたのでした。
さらに「この与えられているいのちをどのように生き・どのような日々として活かすのか」を勢至丸に示されたのでした。
こころ清く・争いなく・そして和やかであり、慶び多く・充実した生き方がおのずから興す人になって欲しい。また、そのような世を求めてほしい。と切望されました。
今日の私たち、どこに生きる基点を定めていることでしょうか。
真の幸福な人生を築くために、静かに自己と世を見つめ直し、日々のご精進をお祈り申し上げます。
合掌