会長法話

勝部 正雄 前会長 第6話

 ご主人の時国さまとお別れになられ、遺児として残された勢至と分かれられた母・秦氏さまの堪えられない悲しみは正に「生死の苦悩」であったことでしょう。
 生かされているいのちへ心を宿すことが出来ず、死への恐怖・無念・絶望に覆われたいのちに流されて生きていくより他に道なし、と言う閉塞感。実に、秦氏は生きながら生きる希望と慶びに至ることがなく、死と同一の状態で生きていなければならない苦悩。その真っ只中で生涯を閉じられたのではないでしょうか。
 勢至自身は、その母の心中を十分に感じられ、生涯忘れることなく、その「生死の苦悩からの解脱」を課題とされ、ご生涯そこからの解脱を一心に求道されたことでした。

 仏法の第一は、まず生きる苦しみ・老いる苦しみ・病む苦しみからマヌガレルことであります。
与えられている今生は、苦悩のために与えられているのではありません。
与えられている今生は、おのずから噴き上がってくる苦悩からマヌガレルために与えられているのです。
法然上人さまの選擇により、この私が私のまゝでマヌガレル仏道をお開きくださったのです。
母の苦悩にお応えになられた明確な道であります。

 しかし、その「生・老・病の苦悩に直面されている人」は?今日、その環境に近い状態で苦悩しておられる人はどれほどにいらっしゃるでしょうか。
 手元にある資料では、2018年9月分の「介護保険事業状況報告」によりますと要介護人数は90万人を超えています。と申しましても、高い宗教・仏教的体験を得られ、苦悩の中に慶びを見出されている人もおられることでしょう。 それらの方々は無常の世を見つめ、無常の世に生きるがために、解脱できる道を求められこの世への執着を放下され、真実の慶びに出遭い、真実の快楽の生活をお送りのことと思います。
 しかし、現実は苦悩に直面されている人のほうが多数を占めているとお見受けいたします。

 今 世の中は何不自由なく日常生活を送っておられますが、実は老いの苦悩・病の苦悩へは少々の対応あれど、それから解脱できる道はないように見受けます。
 先日、たくさんのお金を持っていらっしゃる方が入院され、お見舞に伺いました。日常生活のすべてが整っているお部屋でしたが、「ここは極限の苦しみです」と嘆いておられました。
 食欲が無くなり、やる気も無くなり、楽しみも無くなり、眠気も無くなり、することも無くなり、「こんなに苦しいことはありません」と訴えておられました。本当に気の毒に思いました。
 今日、医療環境は完備され、お薬も間違いなく配布されていますが、生苦を超えること、老苦を超えること、病苦を超えることが難しい状況にあります。
 それだけでなく健やかな生活があると言えば、希望や願望にこころ・いのちが導かれ、ひとときの楽しみに没頭し、それを過ぎ去ったあとの思い出が残りますが、その歓楽の経験でこれらの苦悩を超えることができるでしょうか。「歓楽極まり、哀愁を感ず」ではないでしょうか。
 それも世の常として付き合ったとしても、「苦悩からの解脱」を今生において会得しておかなければ、「その時には恵まれない人生」として終わってしまいます。その必要性には気づかない世界で私たち・現代人は(謳歌して)生きているのではないでしょうか。
 母・秦氏のお姿とその「生死の苦悩」を会得された青年・勢至は今日の私たちのいずれ体験する苦悩をも抱えられて、求道に邁進されたことでした。

合掌

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