会長法話
出家ののちに 尚 隠遁
勢至が比叡へ上がられてからの足跡を振り返ってみましょう。
まず、最初に入門されたのが十五歳、久安三年二月の中旬のころ、西塔北谷の持宝房源光を師とされ、源光は『四教義(しきょうぎ)』を授けられました。
それを熟読玩味され疑問を問いただされましたところ、師は「真に徒人(ただびと)にあらず」と驚かれ、「碩学(せきがく)につけて円宗(えんしゅう)の奥義を極めしめん」
その年の四月八日、自ら勢至に付き添い、功徳院の肥後阿闍梨皇円に入室させたのでした。
その年の秋、十一月八日、勢至は髪を剃り、法衣を身に着け菩薩戒を受け、登山後九ヵ月にして出家を果たされました。
そのころ、すでに「出家ののちは、隠遁(いんとん)して山中に入りたい」との旨を師の阿闍梨皇円に伝えています。
それを聞かれた阿闍梨皇円は、「天台三大部と注釈書、計六十巻を学んだ後、思いを遂げるがよい」といさめられました。
そして、十六歳の春、本書をひもとき、その三カ年後に学び終えられました。
そして十八歳の九月十二日、西塔黒谷の聖・慈眼房叡空(じげんぼうえいくう)の下へ隠遁されたのです。
勢至の求道は「師の教えを超えたり」とありますが、剃髪出家されたのちに天台三大部を学び、三年後に出家に次ぐ「隠遁」とは、どのような意味だったのでしょうか。
まず、出家とは、一般の生活から離れ、煩悩から解脱することを願い、仏の教えに従って生活することを意味しています。
ところが、その当時の書物(沙石集)に、「僧侶の風儀は名利を第一に思い、悟りを余所事(よそごと)にしている」と記されているところがあり、世間とさほど変わらない一面があったようです。
隠遁とは世間の雑事から離れ、浮世から逃れ、静寂の(佛智で開かれる)世界を求めることを意味しています。
しかし、隠遁している僧侶であっても、隠遁により世に尊いものと名を成せば、その評判を手に入れたいという思いもあり、常に影の如くに世俗化がついて回っていたのでしょう。
そのような一面がありながらも、真理を求める人は純粋に隠遁されたでしょう。
勢至においては父の逝去・遺言に促されたのではないでしょうか。それだけに、勢至が求められた西塔黒谷の別所は聖者にふさわしい求道の場であったと伺います。
『今昔物語』に記されている「僧明秀(みょうじょう)の屍骸(しがい)魂魄(こんぱく)の誓願」に基づいた一心専念の求道のありさまは「別所黒谷」の様子がよく現しています。以下のような話が残されています。
今は昔、明秀という僧あり。幼くして比叡山にて出家す。
師について法華経を習い、密教も学び、怠ることなく行を修む。
四十歳にして道心をおこし西塔黒谷の別所にこもりて勤行に精進す。
しかるに病に遭い、死の迫り来るを知り曰く。
「無始の罪障我が身に薫入して、今生に禅定と智慧の行業かなわず。
心乱て法の如くにあらず。
しかりと言えどもこの善根をもって善知識とし、
死してのち屍骸魂魄なりとても、尚、法華経を誦す。
中有生有と言えども専らに法華経を誦し、
佛果に至るまでも只此の経を誦せむ」と誓願し今生を閉ず。
葬ののち墓所にありて常に誦する声あり。
よく聞けば明秀の生前の声に似たり。
最後の誓願に不違(たがわ)ねば極めて貴しとぞと人言いける。
(概略の私釈による)
勢至が十八歳にして叡空の庵に入られたのは、世俗名聞を捨て学問談義から離れ、凡佛一如の伝を旨とせず、只、自らの出離を求める聖を選ばれたのでした。よって、当時の僧侶が関心を向けていた僧官僧位や、大衆・現世・祈祷等とは決別したのでした。
ことの他、師の慈眼房叡空上人は、持宝房源光・阿闍梨皇円と共に源信僧都の流れを継承された師であり、戒においては円頓戒の師、また、密教にも通じた才能の高僧であられました。よって、世の人はじめ僧侶のすべての方々が尊敬しておられた比叡の第一人者だったのでした。
その師が勢至丸に「早く出離の心を起こせり。真にこれ、法然道理の聖なり」と随喜されたと記されています。
合掌