会長法話
碩学歴訪
法然上人行状絵図で清凉寺参籠については七日間の事柄のみ記されているだけで、上人の心情は推察するより他ありません。
しかし、参籠の結果、上人の求道には変化と決意があったのではないか、と伺うことができます。その後の足跡から知ることができます。
寺院は、僧侶や施主・檀那のために存在しているのではなく、その時代に生きるすべての人々の生き方と密接に関わる場でもある。そして、そのことこそが仏教の大きな使命ではないか、そこに釈尊の「平等の慈悲」があり、一般の庶民はその対象ではないか、と心されたのではないでしょうか。
そののち、清凉寺を後にして奈良へと足を進められています。
南都には、華厳・法相・三論などの教理が整い、それぞれの研鑽がなされる場でありました。
上人は比叡山で八宗の大意を習得されたのですが、その自らの修学した宗学に誤りはないか、それぞれの宗の学者に伺う目的があったと思われます。
さらに、比叡山で見ることのできなかった経典はないかを調べることも重要な目的であったでしょう。
上人は京より奈良へ下り、法相宗碩学・藏俊僧都(ほっそうしゅうせきがく・ぞうしゅんそうず)を訪ね、修行者の姿で面会を願われたところ、部屋へ通され、仏法の対談に時を過ごされた、と記されています。
上人が法相宗の教えについて思うところを質問されると僧都は返答につまることなどもあり、一方、上人は推考した解釈をお述べになると、僧都は感歎されて「貴房はただ人に非ず。恐らくは大権の化現か。昔の論主に会い奉るとも、これには過ぐべからずと覚ゆるほどなり。智恵深遠なること、言語道断なり」と申され「二字を奉」られたと記されています。
「あなたは一般の僧ではなく、おそらく仏・菩薩が姿を変えて現れた化身(けしん)ではないでしょうか。昔の論書に書かれている天親菩薩と問答致しても、上人には勝らないと思えるくらいです。智恵の深さは言いつくせません」と申され、「自分の実名を書いた名簿(みょうぶ)を提示し弟子になることを申し出」られたのでした。そして、さらに「一期の間毎年に供養を展ぶること、怠り無かりけるとなん」とあり、生涯の間、毎年に供養の品を怠りなくお贈りされたそうです。
その後、京の醍醐寺(だいごじ)の三論宗の先学者・権律師寛雅(ごんりっし・かんが)を訪ねています。ここでも同じように上人を尊ばれました。
次いで京の仁和寺(にんなじ)・華厳宗の大納言・法橋慶雅(ほつきょうけいが)を訪ねられました。ここでは弘法大師空海の『秘密曼荼羅十住心論』についての質問や問答をされ、やはり形こそ違えど同等の接待を受けられました。
それらのことについて、「称美(しょうび)讃嘆の言葉片腹(かたはら)痛きほどなり」とあり、上人を「ほめたたえる言葉が過剰で、そのような対応くださるとは心が痛みます」と感じられるほどだったと記されています。 上人はそれぞれの宗について自らの所見を述べられ教えを求めましたが、いずれの学者も上人の会得の深さと聡明さに驚くばかりで、弟子となられるほどでした。各宗の名高い師と交流されていた僧や、その弟子たちも「智慧第一の法然房」と聞いていた上人に、実際にお会いになられ、その名実を納得されたのではないでしょうか。
「学問は初めて見立つるは、極めて大事なり。師の説を伝え習うは易きなり」とあります。「学問とは、膨大な見識の中から、最も自らの心に叶った見解を見出して学ぶことではないか、そのことがきわめて大事である。それに比べて師の思考に基づく教えを伝授し学ぶことは誰にでもできる易きことです」ということで、それに次いで「通常、すぐれた学僧と讃えられていても、正しく説明できるものは少ない。今の時代に書物に広く目を通した人を、私は誰も知らない。師の解釈をそのままに伝習しているにしか過ぎない。」
「初めて見立つる」とは、自分に叶うものであるのかを常に自己が自己に問い学ぶものでなければならない、と示しておられます。
実に厳しい説示であり、襟を正される思いがします。
上人は碩学歴訪により、自らの学びについてよく認識されていたと思います。
三論・法相・華厳の経典の知識をそなえていても、それは行の伴っていない学問知識だけである。それゆえに教学とともに修行も伴った証悟の師を求められていたのではないか。
しかし、そのような師に会うことは叶わなかったのでした。
「なお出離の道に煩いて、身心安からず」なお、迷いの世から離れる道は見えず、身も心も安まることなし、と……。