今月の法話
五月の第二日曜日は母の日です。
お母さん お母さん 何にもご用は 無いけれど 呼んでみたいな お母さん
母はもういまさざれど、いつまでたっても母心の外に出られない自分であることに痛感させられます。 本居宣長のお母さんは「遠方ながら母見ており申す」と申されました。
わが子は気づく気づかないに係わらず、わが子に対する親の思いは本当に有難いものです。
親心というものは、人が人を好きになる愛というものとは違う、けっして代えごとの愛情ではなく、飽きることの無い親の慈悲であります。
わが子には、常に良い子に育って欲しい、良い子になって欲しいと願っておって下さっているのです。
また、その思いは見返りを一切考えていない一方通行の愛情です。
皆さん、お母さんが赤ん坊のおむつを代えるとき、今一生懸命世話をしておけば、将来きっと此の子が反対に私を世話してくれる。
そんなことを思いながら世話していますか。
どんなに辛くとも、理屈じゃない、世話をせずにはおれないという、これが親心ですね。
赤ん坊が泣くとお母さんのおチチが自然と出て来るように、見返りなど関係の無い、一方通行の愛情は理屈じゃないのです。
親心と簡単に言うけれど尊い親の慈悲なのです。
み佛さまのように何時も私を見て下さっておる、何時も私を思って下さっているのです。
親は亡くなった後も、永久に我子を思って下さっていると言います。
無量壽経というお経さまに「我、汝等諸天人民を哀愍すること、父母の子を念ふより甚だし」とあるように、み佛は、わが子の如く私達を見守って下さっているのです。
み佛の慈悲も親の慈悲も体は一つです。分量の差で質の差ではないのです。
親の慈悲 浜の真砂と 集むるも なおみ佛の 慈悲に及ばず
親の慈悲というものは何よりも深いものですが、その親の慈悲を浜辺の砂のように集めたものが、み佛の慈悲であります。
「全ての人々を救う、我名を称えよ」と仰せになっているのです。
私達は、どうぞお救い下さいとの思いをもって、み佛のみ名を称えるのです。
『南無阿弥陀佛』とは阿弥陀さまの名を呼ぶことです。
限り無く生きたい我らの熱望の前に、限り無く生かそうとして現われて下さるみ佛です。
つまり、南無阿弥陀佛がみ佛なのです。
何時でも何処でも何をしていても、今お念佛を申す時にみ佛はそこに現われ賜うのです。
お釈迦さまは「汝、好く此の語を持て、是の語を持てとは即ち、是れ無量壽佛の名を持てとなり」
善導大師は「一心専念弥陀名号」
元祖さまは「南無阿弥陀佛と申す外には別の子細候はず、唯一向に念佛すべし」と仰せになっておられます。
故に、南無阿弥陀佛と称える称名は『名体不離』と言うのです。
声に出して呼ぶ名号と、その声に応じて現われたもう体としてのみ佛は同じなのです。
名の外に体無く、体の外に名無く、その関係は不離なのです。
お母さんに逢いたい時は「お母さん」と呼ぶように、み佛に逢いたい時、嬉しい時も、悲しい時も、寂しい時も、南無阿弥陀佛と称えるのです。
称える南無阿弥陀佛の中に、み佛の本体が付いて離れないので。
これがお念佛です。念は声なり。
み佛の名を呼ぶことによって、自分の力の及ばない、如何なる時、所でもみ佛の大慈悲を感じて生きる事が出来るのです。
「念佛衆生、摂取不捨」念佛申す者をば必ず救い取っ下さるのです。
即ち、『念声是一』念と声は一つなのです。
呼べば呼ぶ 呼ばねば呼ばぬ 山彦の 応える声も 呼ぶ人の声
亡き母を思うにつけて、南無阿弥陀佛と称えています。
「お母さん」と親呼ぶ声は、南無阿弥陀佛。
声にだすお念佛が一番大事なのです。
南無阿弥陀佛は、親の名前です。
総てを生かし給う、このわたしを生かして下さる、おおいなる親さまです。
南無阿弥陀佛とすなおに名を呼べる人こそ、幸せな人なのです。
滋賀 善覺寺
二橋信玄