今月の法話

平成29年9月

月のあかり

秋になり、夜空を眺めると月がきれいに見えます。
中秋の名月と呼ばれる、秋の真ん中に出る満月は、人の心をうちます。古来より、月の満ち欠けは私たちの心柱でした。
それは暦となって、私たちの生活の重要な規範、心のよりどころとなります。いわゆる「太陰暦」であります。

「月影の いたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ」
                          (法然上人のおうた)

法然上人の時代にも、見事な満月の夜があったことでしょう。皓々と白くすべてを照らす美しい光に、人々は魅了されました。
しかしながら、その美しさや尊さは、眺めた人に、はじめて感じられるもの。法然上人は月の光を眺めることと、「南無阿弥陀仏」と日々口にお念仏申すことを相対して、阿弥陀さまのお救いをお説きになられたのでした。

畑泥棒が子を連れて瓜を盗みに来ました。
子に畑泥棒が、
「だれか来たら、すぐに知らせるんやで」
と言って畑に入りました。
するとしばらくして、
「お父ちゃん、見たはるで」
「どこや、だれや」
「あそこや、お月さまが見たはるで」
父は、「何だ、月か」と思いながら、ふと空を見上げました。
月の光を眺めるうちに、心が洗われる気がして、自分のやろうとしたことが恥ずかしくなってきて、瓜を盗むのをやめて、子どもを連れて帰りました。

月の光のようにして、み仏さまは常に私たちを見守ってくださいますが、お念仏を称えた時に、慈悲の月光を眺めた時に、み仏が私たちの心を、良き方へと導いて下さるのであります。

合掌

京都 大善寺
羽田龍也

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