今月の法話

令和2年6月

法雨を澍(そそ)ぐ

五月雨の季節、梅雨入りで多くの雨が降る季節です。水の豊かな我が国は、古来より雨と共に生きてきました。雨は鬱陶しくも思い、時には災難をもたらしますが、乾いた大地を潤し植物を育てる働きがあり、人間社会が多くの恩恵に預かることもまた事実でしょう。そのためか雨の呼称は実に様々であり、春霖、驟雨、穀雨をはじめ、青葉に降り注ぐ翠雨など、その降る季節、降り方、役割他、実に情緒に富んでいます。

お念仏が説かれた『佛説無量寿経』には、「法雨を澍(そそ)ぎ、法施を演(の)ぶ」とあります。お釈迦様が法を説かれたご様子を、「雨が降って樹木を潤すよう」であると示されています。阿弥陀仏の衆生救済の慈悲の雨は、今現在も我々一人一人に降り注がれているのです。
よく見るお寺の天井画の龍の絵は、龍が水の神様であり、堂宇を火災から守る意味付けや、仏の教えを雨にたとえて、分け隔てなく一切衆生に降り注ぐ願いが込められているのです。

法然上人の母秦氏様は、幼少勢至丸様(法然上人の幼名)を比叡のお山に送る時、拭いきれない大粒の涙を流されました。お伝記には、「袖に余る悲しみの涙、小児の黒髪を潤す」とあり、勢至丸様はその冷たい母の涙雨を、生涯忘れることはなかったでしょう。その母を思い、女人に浄土往生が許されなかった時代において、元祖法然上人は、誰でも分け隔てなく必ず、西方極楽浄土へ救済される、お念仏のみ教えをお示し頂きました。まさにその時代、旱天の慈雨と多くの人々が悦びの涙を流されたことでありましょう。
この阿弥陀仏の本願、お救いのお念仏は、現代へも脈々と受け継がれています。煩悩まみれのこの身を洗い、生れ往く浄土を信じ、お念仏に生きる日暮しをと、法雨に思いを馳せたことでありました。ともにお念仏に励みましょう。

合掌

滋賀 西福寺
稲岡純史

バックナンバーを見る