今月の法話
平成13年10月
私たちの多くは、自分の都合がよくなれば幸せなのにと思って暮らしています。
しかし都合は時々刻々に変化しています。
近所の若いお母さんが、「厳しいお産の陣痛の中で、元気な赤ちゃんが無事に授かれば他に何にも望みませんと、神にも佛にも願って生まれた子供が、今年小学校六年生、遊び盛りで元気なのはいいのですが、もう少し勉強にみを入れて欲しいです」。
と苦笑いをしておっしゃられる。
都合がかなって一時の幸せ感はあっても、もう次の新しい都合を追いかけている。
これでは生涯かけても持ちきりの幸せは得られません。
ここに、ある受刑者の方が、自からの胸に手をあて、今日までの行状に慚愧してつくられた詩を招介します。
当たり前
当たり前は人を駄目にする
当たり前の数だけ人は不幸になる
当たり前をひとつへらせば
感謝がひとつふえる
感謝の数だけ人は幸せになれる。
私たちは、悠久の生命の流れの中で尊くも人として生まれさせて頂き、しかも生まれたときは丸裸、自分ではどうしょうもできぬ裸ん坊が、十重二十重のみ恵みのお蔭で現在、ここに生かされているということを真摯に受け取るなれば、感謝感謝の日暮でなければならぬはずです。
ところが、「そんこと当たり前や」、とうそぶいてはばからぬ。そのくせ少し都合が悪くなろうものなら不足たらたらです。
私はこの「当たり前」の詩を口ずさんでは、感謝心の余りにも足りぬ自からの至らなさを感ぜずにはおれません。
法然上人は至らぬままに阿弥陀さまにお縋りし、 生涯かけて只只、お念佛をお称えなさいと お示し下さった。
感謝心を忘れ、自からの都合のよくならんことのみ追いかけてやまぬ至らぬものなればこそ、一層にお念佛を精進させて頂くものでございます。
奈良 浄土寺
藤田能宏