今月の法話

平成15年1月

平成三年に父が六十五才で往生した時、祖母は八十九才でまだ元気でした。
容体が急変したという知らせを受け皆が病院へ向かうなか、一人祖母は病院へ行く事を拒み、本堂で
念佛を申していました。
わが子を先立たせる悲しみがいかほどのものか、三人の子の父親となった今、あの時の祖母の気持ちが少しはわかるような気がします。
しかしその悲しみのなか、祖母は念佛を申さずにはいられなかったのではないかと思います。
念佛を申すことがそのまま祖母の救いだったのだろうと・・・。
阿弥陀様がまだ佛様と成られる前、法蔵菩薩という名前でいらした時、「生きとし生けるものを一人も漏らさず救いたい」と願われ建てられた誓いを本願と申します。
その本願に四十八ありますが中でも第十八番目の「もし私が佛と成ったならば、十方のいかなる世界
に生けるものでも、命終わった後に私の建てた極楽浄土に生まれたいと願い、真実の心で心の奥底よりナムアミダブツと私の名を呼ぶものがあれば、たとえそれが命終わる時に臨んでの十声の念佛であったとしても、必ず迎えとる」と誓われた願を念佛往生の本願と申し、法然上人が「ただ一向に念佛すべし」とお勧め下さる本題の念佛とは、阿弥陀様のこの誓いを信じて申す念佛のことです。
そしてその誓いを信じ念佛申す者が命の終わりを迎えた時、阿弥陀様自らが、その枕辺にご来迎下さり、極楽浄土へ連れて帰って下さる事を往生と申します。
念佛申すことがそのまま救いになるのは、そのお念佛の中に、この阿弥陀様の一人も漏らさず迎えとるという大慈悲の御心が込められているからです。
どんなに科学が発達し、物が豊かになっても、死の問題に関しては、そんなものでは救われてはいきません。謙虚に仰ぎ信二行ずる事が大切です。
極楽へ往生させて頂くという事は、ぶ厚い佛教書を何冊読んでもわかることではなく、ただ毎日、ナムアミダブツ・・・と手を合わせて念佛申す生活の中で自然と受けとめられていくものだろうと思います。
医学の進歩により築かれた高齢化社会は、現代人に生きる事こそが勝者の道で、死に行く者は敗者であるかのような考えを抱かせ、この世に一日でも一分でも一秒でも長く生きる事のみに価値を見出してきましたが、真の長寿とはその先に開けてくる世界を持っているかどうかという事にかかっているように思います。
例え百才迄生きられても、往生の術を知らぬ人は此の世に於いての百年だけの命ですが、往生極楽の進行を持たれ念佛申される方は無量なる寿を得られた方でもあります。
日々念佛を申し、真の長寿を得たいものです。
ご精進下さい。

合掌

山口 大福寺
神田大聖

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