今月の法話
風薫る五月になりました。
新緑の爽やかな季候を「風薫る」と表現するのはまことに風情のあるもので、このほかにも匂いや香りを日常の事象や人柄などに例えて用いることが多くあります。
浄土宗ではお勤めのはじめに「願わくは我が身のきよきこと香炉の如く」とお香を焚き、身を浄めて仏様を供養します。
お香の中で特に珍重されているのが沈香(じんこう)です。
沈香は熱帯アジアの密林に自生する樹木が朽ち果て倒れ、長い年月の間に水中で洗われ、あるいは土中に埋れ、傷つき病んだ都位が樹脂となって残ったものとされています。
樹木本体はなくなってもその精髄だけが残り、芳香を漂わせる有り様は、念仏信者に相似たものがあります。
浄土宗宗祖法然上入は「それ朝にひらくる栄花はタベの風に散りやすく、タベに結ぶ命露は、朝の日に消えやすし。これを知らずして、つねに栄えん事を思い、これを悟らずして久しくあらん事を思う。
しかるあいだ無常の風ひとたびふきて、有為のつゆ、ながく消えぬれば、これを広野にすて、これをとおき山におくる。
かばねはついにこけの下にうずもれ、たましいは独りたびのそらにまよう。」とこの世の無常をお示しになられ「すみやかに出要を求めて、むなしく三途に帰る事なかれ。」と迷いの世界を脱する道を求めることをお諭しになっておられます。
私たちの肉体はやがて消え去ります。
地位や名誉や財産もまた永く保たれるものではありません。
苦しみ、傷つき、病む人生にあって、迷いの世界から脱する道は,阿弥陀佛の本願を信じ「南無阿弥陀仏」のお念仏をお称えするほかありません。
姿形は無くなってもお念仏の功徳によって浄土に往生する念仏信者と、朽ち残って芳香を発する沈香に、気高い法味を覚えます。
仏前にお香をお供えし、心静かに「人薫る」念仏信者の日暮らしをお送り下さい。
合掌
北海道第二 天龍寺
松岡玄龍