今月の法話

平成17年7月

煩悩という言葉があります。私たち凡夫(普通の人間)が持つ心の乱れを指す言葉です。
煩悩はよく一〇八あるといわれますが、基本的なものは次の六つです。

一、貪(とん)むさぼり・欲望の心
二、塵(じん)怒り・反発する心
三、痴(ち)迷い・愚かな心
四、見(けん)誤った見解
五、疑(ぎ)疑いの心
六、慢(まん)うぬぼれ・高慢な心

あるとき瀬戸内寂聴師が凡夫とは「オバーカサン」ということとおはなしになっていました。
そしてさらには「良いと分かっていながらできないオバーカサン」と、「悪いと分かっていながらしてしまうオバーカサン」がいること、そしてよくよく考えてみるとみんなオバーカサンであること、寂聴師らしい語り口で私もなるほどオバーカサンだと心から思いました。

正しい宗教心を持つことの第一歩は、自分自身のありのままの姿に気づくことではないでしょうか。
自分自身が煩悩だらけの凡夫であると自覚することです。

お念仏の教えは煩悩を断ち切ることを勧める教えではなく、煩悩を持ったまま救われていく教えなのです。

善導大師は「泥池にこそ清らかな蓮の花は開きます。煩悩を持った心にこそ、仏の救いの手はさしのべられます。」とおっしゃっていますし、法然上人も「先ず南無阿弥陀仏と称えなさい。心の迷いは自然とやんでいきます。
阿弥陀様は心乱れるような人々をこそお救いになってくださるのですから。」とお示しになられました。

池の水 人のこころに 似たりけり にごりすむこと さだめなければ

自身の心のにごりすむことがわかるということは、すでに光に照らされているからなのです。
南無阿弥陀仏と称えたときはもう阿弥陀様の救いのみ光に包まれているのです。

信仰心のあつい人は、必ず自らの心を厳しく省みます。
反省の心が生まれてくると、正しい感謝の心がおこってくるのです。

感謝と反省。
大事にしたい言葉ですね。

東京 念佛院
中野隆英

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