今月の法話
平成23年8月
「やって見せる」と「やっている」
幼くして父親を亡くし、女手一つで苦労して育てられた学校の先生がこう話された。
「昔、食事の時、鼻紙を座に残して行く事を、私は時々母に注意された。それでも残して行けば、母は黙って始末をしてくれる。それでついずるい心で、母の始末を良い事に、私はよく鼻紙を残して立った。母は黙々として、いつもそれを片付けた」
このお母さんの行いが、知らず知らずの内に先生自身を感化していたことを、大人になり教師という立場で強く意識されたのである。
廊下に落ちている紙屑や糸屑を平気で見過ごす生徒達に度々注意しても、やはりいつも塵が廊下に落ちていた。先生は、それを黙々と拾われるのである。
ある時、先輩先生に「君が塵を拾っても、教育にならん。生徒に拾わせねば、教育にならんじゃないか」と言われても、先生は黙々と廊下の塵を拾われていくのである。
なぜか?―“言って聞かす”よりは、自分が黙って塵拾いを繰り返している方が、教育としてより深刻であることを、先生はお母さんによって知らされていたからである。
「心ない生徒は、今日も塵を拾わない。先生に拾わせて平気である。しかし、もう少し年が行って、1人前の大人になった時、この教育が生きてくるのである。心なくも先生に塵を拾わせている生徒達も、家庭を持った時、必ず私の無言の行がよみがえる事を私は信じている」と。つまり、先生の教育は実行の教育である。言って聞かす教育ではなく、やっている教育である。”やって見せる”のではない。”やっている”のである。
お寺やお墓参りも、お参りしていること、またお念仏の心構えも、飾らぬ心でただ、阿弥陀様のお救いを信じ、一途に南無阿弥陀佛とお念仏申していることがより大切なのです。
合掌
滋賀 西福寺
稲岡純史