今月の法話
平成25年9月
父の面影
先日、お盆の墓回向を勤めさせていただいたお檀家さんから次の様な言葉をかけていただきました。「手を合わせて目を閉じていると先代のお父さんと声が同じやねぇ」と。特に電話での応対の声はそっくりの様で他のお檀家さんからも過去に何度か同様の言葉をいただきました。以前は父親に似ていると言う事に抵抗感があり恥ずかしく思っていましたが、いつからか「今の自分と同じ年齢の父親はどうだったのだろう?」と考えるようになったのです。かすかな子供の頃の記憶を辿り、当時の自坊と家庭の色々な出来事を思い出し、その時には気づかなかった父親の苦労を知り、あらためて遷化した父親の存在の大きさに頭が下がる思いになりました。「自分の知らないところでいろんな苦労をしていたんだなぁ」と。
法然上人の御法語「孝養父母」の中に「我が身の人となりて往生を願い念仏することは偏(ひとえ)に我が父母(ちちはは)の養い立てればこそあれ」というお言葉がある。自分が人としてお念仏をお称えできるのも育てて下さった父母のおかげだというのです。
そしてその父母の御恩に報いるには「まず阿弥陀仏に預け参らすべし。」と阿弥陀様に救っていただくことを願い、お念仏をお称えすることを勧めていらっしゃいます。
私達は誰もが悲しい事に、大切な人がそばに居なくなってからその存在の大きさを知ることになります。そのことを悔やむのでなく受けた御恩に感謝の心を込めてお念仏をお称えすることが報いることになるのです。
少しでも僧侶として息子として父に近づけることを目指し、お浄土で胸をはって再会できること願い父の墓前で御念仏を称えさせていただきました。 亡き人の ために手向けし念仏は生きるわが身の教えなりけり
合掌
石川 誓願寺
魚津光彦